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アルピーヌF1
アルピーヌF1(Alpine F1)は、フランスの自動車ブランド「アルピーヌ」の名を冠したF1コンストラクター。前身ルノーF1チームから改称し、リニューアルして誕生した。運営はアルピーヌ・レーシング Ltd.(アルピーヌ・カーズ)。 2022年現在のエントリー名は『BWT・アルピーヌF1チーム』(BWT Alpine F1 Team)。 概要. まで「ルノーF1チーム」として参戦していたフランスの自動車メーカー・ルノーは、翌シーズンより傘下の自動車メーカー・アルピーヌの名を冠した『アルピーヌF1チーム』にコンストラクターの改変を発表。運営をルノー・スポールからアルピーヌ・レーシング・リミテッド(アルピーヌ・カーズ)に改称し、ルノー・スポール会長ジェローム・ストールは退任、チーム代表だったシリル・アビテブールも解任して組織を一新した。 人事ではアルピーヌ本社のCEO ローラン・ロッシが指揮を執り、ダビデ・ブリビオ(元スズキMotoGPチーム代表)やオトマー・サフナウアー(元レーシング・ポイントおよびアストンマーティンF1チーム代表)らを招聘するなど有力な幹部を配置。車体やエンジン製造それぞれにテクニカルディレクターを配して、より効率的な分業化を強めている。 他の有力チーム同様、自社傘下のドライバー育成組織としてアルピーヌ・アカデミーを持つが、近年は育成ドライバーが他チームに流出するケースが多く(オスカー・ピアストリ/周冠宇など)、運営体制が問題となっている。 シーズン. 2021年. 今シーズンよりアルピーヌF1チームとして参戦。ドライバーは残留するエステバン・オコンと、今季からF1に復帰するフェルナンド・アロンソ。 オコンが、第11戦ハンガリーGPでルイス・ハミルトンを抑えて自身とチームの初優勝を飾った。 2022年. メインスポンサーとして、前年までアストンマーティンF1のスポンサーだった、オーストリアのBWTを迎える。それに伴いエントリー名も「BWT・アルピーヌF1チーム」となった。アストンマーティンF1からは他にもオトマー・サフナウアーが移籍しチーム代表となる一方で、エグゼクティブディレクターのマルチン・ブコウスキー、アドバイザーのアラン・プロストらが離脱するなど、チーム首脳陣の入れ替えが進んだ。 シーズン半ばにはアロンソが同年末でチームを離脱しアストンマーティンに移籍する意向を発表。それに伴いチームは育成ドライバーのオスカー・ピアストリの昇格を一度は発表するものの、ピアストリは「アルピーヌF1とは有効なドライバー契約を結んでいない」としてマクラーレンと契約済みであることを発表した。最終的に同年9月、国際自動車連盟(FIA)のドライバー契約承認委員会(CRB)が「ピアストリとマクラーレンとの契約が有効である」と認めたため、チームは代わりのドライバー探しを余儀なくされる。結局チームは、既にアルファタウリとの契約延長を発表済みであったピエール・ガスリーを引き抜くことを決め、同年10月にガスリーとの複数年契約を公表した。 車両ギャラリー. パワーユニット型(2021年) グラウンドエフェクト型(2022年 - )
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善統親王
善統親王(よしむねしんのう、貞永2年(1233年) - 文保元年3月29日(1317年5月10日))は、鎌倉時代の皇族。順徳天皇の第6皇子。四辻宮初代。 経歴. 順徳天皇が佐渡島に配流された後の天福元年(1233年)誕生であることから、佐渡で生まれたか、もしくは帰京した女房から生まれたと想定される。 祖母・修明門院のもとで成長してその養子となり、親王宣下を受けた。建長3年(1251年)に祖母から七条院領を相続した。その後、祖母の住まいであった一条万里小路にあった御所・四辻殿を相続したらしく、以後四辻宮と呼ばれるようになった。善統親王が七条院領および四辻殿を継承した背景には、親王の外祖父である藤原範光が修明門院の義兄であることや、修明門院領の所領には範光の姉で後鳥羽院の乳母であった藤原兼子(卿局)から譲られていた所領も含まれていたことが影響したと考えられている。もう一つの理由として、異母兄の忠成王が仁治三年の政変及び宮騒動において、後嵯峨天皇と皇位継承を争う対立者として鎌倉幕府から警戒の対象とされてしまったために彼やその子孫が将来の皇位継承や皇室領継承の前提と考えられていた親王宣下を受けることが絶望的になったことを指摘する見解もある。 弘安3年(1280年)・正応2年(1289年)5月の2回に亘って善統は七条院領を後宇多天皇に進献したが、この背景には共に修明門院の許で育ちながら遺領の継承を受けられなかった異母兄の忠成王とその後継者である三郎宮(彦仁王と推測される)が七条院領を含む修明門院領の継承に異論を挟んで訴訟になったことが背景にあったと考えられている。岩倉宮(忠成王父子)は持明院統から修明門院領の安堵を得ることに成功し、四辻宮(善統親王)はこれを阻止するために大覚寺統の後宇多天皇に進献して自領の保護を期待したとみられる。なお、この訴訟は鎌倉幕府にも持ち込まれているが、女院領の継承問題は天皇しか裁許できないとして訴訟を辞退するとした内容が記された連署の大仏宣時(陸奥守)名義の書状が残されている。また、領家との間でも訴訟を抱えていたと推定される文書も確認されている。その後、正和3年(1314年)7月に尊治親王(後の後醍醐天皇)から正応2年(1289年)に進献された17カ所を還付されており、訴訟問題がこの時期には終わっていたとみられる。 正応4年(1291年)5月に善統親王は出家し、以後は四辻入道親王と称される。 文保元年(1317年)3月29日薨去。享年85。
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大規模地震対策特別措置法
大規模地震対策特別措置法(だいきぼじしんたいさくとくべつそちほう)とは、大規模な地震による災害から国民の生命、身体および財産を保護するため、地震防災対策強化地域の指定、地震観測体制の整備その他地震防災体制の整備に関する事項および地震防災応急対策その他地震防災に関する事項について特別の措置を定めることにより、地震防災対策の強化を図り、もって社会の秩序の維持と公共の福祉の確保に資することを目的として制定された日本の法律である。略称は大震法。 東海地震の直前予知を目的として、正式名称「地震防災対策強化地域判定会」、通称「判定会」が1979年に設置されている。 方針の変更. 2017年9月に東海地震について、地震予知を前提とした情報の提供の取りやめが検討されていることが報道された。2021年5月20日に法律が改正された。
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こうたろ
こうたろは、読売テレビで毎週土曜日深夜(日曜日未明)2時~2時30分(JST)に放送されていたドラマ仕立てのテレビショッピング(通販番組)である。ハイビジョン制作。放映期間は2007年4月7日~2007年9月29日。「こうたろ」とは関西弁で「買ってやろう」の意味。
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ザムトゲマインデ・ベルゼンブリュック
ザムトゲマインデ・ベルゼンブリュック () は、ドイツ連邦共和国ニーダーザクセン州オスナブリュック郡の(集合自治体)である。 地理. 位置. ザムトゲマインデは、ブラームガウ北部のアルトラントの南東部からアンクム高地にまで広がっている。東部はオルデンブルガー・ミュンスターラントに接する。 がこのザムトゲマインデ内を南北に流れ、南部にはアルフゼー(湖)がある。 ザムトゲマインデの構成. このザムトゲマインデは、アルフハウゼン、アンクム、エッガーミューレン、ゲールデ、ケッテンカンプ、リーステ、ベルゼンブリュック市からなる。 住民. 人口推移. 以下の表は、各年の12月31日時点での町域における人口を示している。 数値は、1987年5月25日の人口調査結果に基づくニーダーザクセン州統計およびコミュニケーション技術局の研究結果である。 行政. 議会. このザムトゲマインデの議会は 36議席で構成される。これに投票権を有する議員としてザムトゲマインデ長が参加する。 首長. ホルドルフのミヒャエル・ヴェルンケ (CDU) は、2020年にザムトゲマインデの長に選出された。彼は2020年2月23日の決選投票で 51.71 % の票を獲得してザムトゲマインデの長に選出された。 紋章、旗、印章. 紋章の図柄: このザムトゲマインデの紋章は、青地に赤い尖塔屋根を戴く白い楼門。左右にそれぞれ幅が狭い、丈の低い付属部がある。付属部は平屋根でそれぞれに窓がある。尖塔屋根には左(向かって右)に向いた黒い風向計が取り付けられている。楼門の下には左右それぞれ3本ずつの白い波帯。 旗のデザイン: このザムトゲマインデの旗の色は赤と青。ここにシンボルとして紋章が描かれている。 印章: 印章は、紋章と「Samtgemeinde Bersenbrück」の文言。
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シャナック
シャナック (Chanac)は、フランス、オクシタニー地域圏、ロゼール県のコミューン。 気候. いくらか海からの影響を受けた地中海性気候である。村は古くは『小さなニース』と呼ばれ、日照時間はトゥールーズとほぼ同じである。 地理. 村はラングドックのオック語地域に含まれる。村の中心はオルト川を見下ろす岩の露頭の上にあり、標高は650mである。村の一部は標高1000mのソーヴテール高原にある。 人口統計. 参照元:1999年までEHESS、2004年以降INSEE 史跡. 要約すると、要塞の建設は1194年から1213年の間アラゴン王によって行われ、宗教戦争で激しく争われた後に所有者がマンド司教に代わって工事が続けられた。要塞は司教の私的財産となり、司教が夏に滞在する邸宅となった。
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アカエリツミ
アカエリツミ(学名:"Accipiter cirrocephalus")は、鳥綱タカ目タカ科に分類される鳥類の一種である。 概要. 体長は雄で約29cm、雌で約39cm。翼開長は雄で約55cm、雌で約78cm。雌雄同色であるが、雌の方が雄よりも大きい。成鳥は背面が青灰色、腹部は乳白色で赤褐色の横斑がある。虹彩は黄色。静止時は翼の先端は尾羽の先端を超えない。幼鳥は腹部にV字型の斑が並ぶ。 分布. オーストラリア全土、パプアニューギニア、インドネシア 生態. 食性は肉食性で、林縁の枝などに留まり探餌し、小型鳥類や時には昆虫を捕らえて食べる。 参考文献. Field Guide to Australian Birds, Michael Morcombe, Steve Panish Publishing, 2004, ISBN 9781740215596 Accipiter cirrocephalus, International Union for Conservation of Nature and Natural Resources,
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プリメーラ・ディビシオン (アルゼンチン)1893
チャンピオンシップ・カップ1893 (Championship Cup 1893)は、アマチュア時代におけるアルゼンチンのサッカーリーグ1部、プリメーラ・ディビシオンの第1回目のシーズンである。主催団体は「アルゼンチン・アソシエーション・フットボールリーグ」(Argentine Association Football League)。1891年にアルゼンチンで最初のサッカーリーグを開催したアルゼンチン・アソシエーション・フットボールリーグと同じ団体名であるが別団体である。新団体は現在のアルゼンチンサッカー協会(AFA)の前身である。アルゼンチンサッカー協会は、旧団体が主催したサッカーリーグを現在のプリメーラ・ディビシオンの起源として認めていない。 概要. 1893年2月21日、スコットランド出身のイギリス人アレクサンダー・ワトソン・ハットンにより、アルゼンチン・アソシエーション・フットボールリーグ(現在のアルゼンチンサッカー協会(AFA)の前身)が創設された。同名の別団体が開催した2年前のリーグ戦と同じく、このチャンピオンシップ・カップも2回戦総当たりのリーグ戦形式・勝ち点制で行われた。開催地はブエノスアイレスである。なお、1人の選手が複数のチームでプレーしているケースがあった。 結果. ローマスACが無敗で優勝した。リーグ終了前後にキルメス・ローヴァーズとイングリッシュ・ハイスクールは協会から除名され、ブエノスアイレス・アンド・ロサリオ・レールウェイは脱退した。
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名古屋市立大須小学校
名古屋市立大須小学校(なごやしりつ おおすしょうがっこう)は、愛知県名古屋市中区大須一丁目にある公立小学校。
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糸魚川駅
糸魚川駅(いといがわえき)は、新潟県糸魚川市大町一丁目にある、西日本旅客鉄道(JR西日本)・えちごトキめき鉄道・日本貨物鉄道(JR貨物)の駅である。 概要. 新潟県西部にある糸魚川市の中心駅・代表駅で、えちごトキめき鉄道と、JR西日本金沢支社 北陸広域鉄道部の大糸線の運行拠点が配置されている。 海岸沿いに位置し、新幹線の車内からは海が見える場所にある。 乗り入れ路線. JR西日本の北陸新幹線・大糸線、えちごトキめき鉄道の日本海ひすいラインが乗り入れている。JR貨物は日本海ひすいラインのみ第二種鉄道事業として貨物列車を運行している。日本海ひすいラインは元々は当駅の所属線であった北陸本線の一部であったが、2015年(平成27年)3月14日の北陸新幹線長野駅 - 金沢駅間延伸開業に伴い、えちごトキめき鉄道へ移管された。これに伴い、在来線構内はJR西日本の在来線である大糸線も含め、えちごトキめき鉄道の管轄となった。 なお新幹線開業と北陸本線の移管に伴い、当駅はJR西日本では新潟県内で唯一の有人駅となっている。JR西日本管理の有人駅としても最東端にあたる。 新幹線の延伸開業時に運行を開始した定期列車のうち、速達タイプの「かがやき」は当駅を通過するが、各駅停車タイプの「はくたか」計15往復(東京 - 金沢間14往復、長野 - 金沢間1往復)は全列車が停車する。 JR糸魚川駅の事務管コードは▲541482を使用している。 駅構造. JR西日本と鉄道・運輸機構、糸魚川市では新幹線開通に際し駅舎の改築と南北自由通路の新設を進め、北側の在来線橋上駅舎は2013年12月1日の始発列車から、自由通路は2014年9月14日の12時からそれぞれ供用が開始された。また糸魚川市では改築に合わせ駅舎出入口の愛称として、従前から設けられている北側を「日本海口(北口)」、新設された南側を「アルプス口(南口)」と命名した。 南北の駅舎は糸魚川市周辺の風景をモチーフとして設計されたもの。在来線の日本海口駅舎と自由通路は、中心市街地の雁木造と町屋をイメージした和風のデザインが用いられている。 新幹線のアルプス口駅舎のデザイン原案は「日本海と北アルプスに抱かれた、雄大な自然を感じさせる駅」で、市が2007年(平成19年)に鉄道・運輸機構に要望したデザイン構想を基に、同機構が2010年(平成22年)10月29日に市側へ提示した3案の中から選定された「C案」を基に設計されたもので、日本海の波と北アルプス、市内の姫川流域で産出されるヒスイ、市域が指定されている「世界ジオパーク」をイメージして、外装のデザインにはヒスイを表す翠色や、地層や断層を表すストライプなどが取り入れられている。 新幹線. JR西日本金沢支社が管理する直営駅(駅長配置)で、3階に設けられたホームはフロア全体がスノーシェルターで覆われた高架構造で、相対式ホーム2面2線を有する。 通過線が設置されていないため、ホームにはホームドアが設置されているほか、待合室と喫煙室が1箇所ずつ設置されている。 発車メロディには相馬御風作詞の「春よ来い」を使用している。これはJR西日本が糸魚川市に対し、発車メロディの使用を提案したことを受け、市は「御風は市を代表する文人であり、(新幹線開業年の)2015年が御風の没後65周年にあたること」や「聴く者の心を明るくし、安らぎを与えてくれる曲であること」などを選定理由として、使用楽曲の第一候補に後述の在来線ホームで春季に使用している「春よ来い」を、第二候補に同じく御風作詞の「糸魚川小唄」の2曲を推薦した。JR西日本ではその後選考等を経て、2014年(平成26年)12月9日に当駅については第一候補『春よ来い』を採用する旨を発表した。 2階のコンコースには、みどりの券売機プラス・自動改札機(3通路)・化粧室などが設置されている。 改札口では全通路で新幹線eチケットサービスが利用可能。 コンコースの自由通路沿いには売店としてセブン-イレブンが営業している。 バリアフリー対策として、改札内コンコースとホームの間にはエレベーター1基とエスカレーター上下各1基が設置されているほか、改札内コンコースのトイレにはオストメイト対応の多機能トイレが併設されている。 のりば. 北側から順に、下記のように配置されている。 在来線. えちごトキめき鉄道とJR西日本の共同使用駅で、えちごトキめき鉄道が管理する直営駅。大糸線の駅業務はJR西日本金沢支社の北陸広域鉄道部が業務委託している。 単式ホーム1面1線と島式ホーム1面3線を持つ地上駅で、橋上駅舎を持つ。北側の単式ホームが1番のりば、南側の島式ホームが2・3番のりば、2番のりば西側(富山方)の切欠きホームが4番のりばとなっている。 コンコースには有人改札口、きっぷ売り場(営業時間 7時00分 - 20時00分)のほか、タッチパネル式自動券売機が設置されている。 バリアフリー対策として、改札内と両ホームの間にはエレベーターが設置されているほか、改札内のトイレにはオストメイト対応の多機能トイレが併設されている。 日本海口駅舎の西側に設置されている事務棟は1957年(昭和32年)竣工の3代目駅舎の一部を使用したもので、移管前はJR西日本金沢支社管内のうち、新潟・長野の区間を管理していた糸魚川地域鉄道部の事務所が置かれていた。 同鉄道部は移管前の当駅を直営駅(終日社員配置)として管理を行っていたほか、北陸本線の市振駅 - 谷浜駅間、大糸線の中土駅 - 姫川駅間にある各駅の管理駅としていた。 なお糸魚川地域鉄道部と富山地域鉄道部は新幹線開業に伴うJR金沢支社の組織再編に伴い、新幹線開業日をもって前掲の「北陸広域鉄道部」に改組された。 取り扱うきっぷについて. 日本海口駅舎の窓口・券売機は、えちごトキめき鉄道の管轄となるため、普通乗車券等についてはえちごトキめき鉄道が設定する連絡運輸範囲内のみの発券となる。このため、大糸線の乗車券は、連絡運輸範囲となっている本駅から南小谷駅までの各駅分のみ取り扱い、同駅から先の千国駅以南の各駅への乗車券などはアルプス口駅舎のみどりの券売機プラスでの取り扱いとなる。同様に、日本海ひすいラインの市振駅 - 直江津駅間は、JR西日本金沢支社管内の特別企画乗車券「北陸おでかけパス」「北陸周遊乗車券」のフリー区間となっているが、当駅ではアルプス口駅舎のみで取り扱っている。 一方で、日本海口駅舎窓口では、JR東日本新潟支社管内の特別企画乗車券のうち、えちごトキめき鉄道の区間が含まれる「えちごツーデーパス」「しらゆきWきっぷ」の2券種に限り、JR東日本のビジネスえきねっとのシステムを用いて、8時30分 - 19時30分の間のみ取り扱っている。 のりば. 北側から順に、下記のように配置されている。 列車運転指令上では、1番のりばが「下り本線」、2番のりばが「中2番線」、3番のりばが「上り本線」、4番のりばが「中3番線」となっている。この他、1番のりばと2番のりばの間と、3番のりばの山側にはホームのない待避線(前者は「中1番線」、後者は「上り1番線」)がある。 大糸線の列車は基本的に4番のりばで折り返す。また、2015年3月時点での定期列車では設定されていないが、2番のりばからも大糸線方面への発車が可能である。 上記のほか、構内には側線が設けられており、車両の留置などに使用される。 ご当地メロディー. かつては在来線のうち、日本海ひすいラインの一部列車では発車メロディを使用していた。 それまでの電子ベルに代わって2000年(平成12年)1月20日から運用が開始された楽曲には、同年が糸魚川市出身の相馬御風の没後50周年にあたることから、当時のJR西日本金沢支社糸魚川地域鉄道部が、地域密着策の一環として御風作詞の曲を採用したもので、メロディは季節ごとに下記の4種類を使用していた。 自由通路. 新幹線・在来線の各コンコースは、自由通路に面する2階に設けられている。相互間の乗り換え専用通路は設けられておらず、乗り換え動線は自由通路を経由する経路のみとなる。 自由通路(糸魚川駅自由通路)は糸魚川市が管理しており、2階平面部の延長70m、階段部を含む総延長115m、幅員6mを有する。終日通行可能で、歩行者のほか自転車も通行できるが、自転車は押して徒歩で通行する必要がある。また、2020年には自由通路に糸魚川市の観光案内所が設置されている。 日本海口・アルプス口両駅舎のコンコース正面と、日本海口側階段下の待合室、後述のジオパル内に設置されたデジタルサイネージでは、列車・路線バスの発車時刻案内をはじめ周辺の観光案内、市の広報映像などが放映されている。 なおバリアフリー対策として日本海口側、アルプス口側にはそれぞれエスカレーターとエレベーターが設置されているほか、オストメイト対応の多機能トイレは日本海口側、アルプス口側の各1階階段下のトイレと、ジオパル内「ジオラマステーション」横のトイレ(開館時間内のみ利用可)の計3箇所に併設されている。 日本海口(北口). 元々出入口が設けられていたのは日本海口側で、糸魚川市の中心市街地に面している。 駅舎東側の隣接地には交流施設「ヒスイ王国館」が所在し、1階には「糸魚川観光物産センター」と飲食店、2階には観光案内所、駅レンタカーの窓口、コミュニティホール(貸室)などがあり、2階フロアと自由通路の間は階段と前掲のエレベーターで連絡している。 また自由通路の日本海口側階段下のエレベーターホール横には待合室(開放時間 6時00分 - 21時00分)が設けられている。このほか待合室横では2015年2月28日までコンビニエンスストア「ちゃお糸魚川」が仮営業を行っていた(新幹線開業に伴い移転し、前掲のセブン-イレブン キヨスクへ転換)。 アルプス口(南口). アルプス口は新幹線の建設に合わせて整備された出入口で、2014年9月14日の暫定供用開始以降、各施設および設備の供用が順次開始された。 駅前広場の駅舎正面には、後述の「レンガ車庫」のモニュメントが設置されている。 ジオパル. アルプス口駅舎1階に設けられた糸魚川ジオステーション ジオパルは、観光案内所や鉄道保存展示施設などを備えた複合型交流施設である。 新幹線開業1か月前の2015年2月14日に開館した。施設を管理する糸魚川市では、市域が認定されている「糸魚川ジオパーク」(世界ジオパーク)の魅力を発信し、鉄道実車両や鉄道模型に親しみ、楽しむことができる施設として運営を行っている。 施設名は一般公募から選定のうえ決定したもので、「ジオ」は「世界ジオパーク」と鉄道模型の「ジオラマ」を表し、また英語で「友達」などを意味する「pal」を組み合わせ、ジオパークやジオラマの輪が友達や仲間に大きく広がっていく中心施設というイメージを表現しており、上越市在住の男性と東京都世田谷区在住の男性が応募した両案を折衷して命名された。 ジオパル内には3つのスペースが設けられ、糸魚川市観光協会などが運営する観光案内所「ジオパーク観光インフォメーションセンター」では周辺地域の観光情報を提供しているほか、ジオパークに関する参加体験型コーナーや子供が遊べるスペースも設けられている。 かつて大糸線内を走行していたキハ52 156が静態保存された「キハ52待合室」では実車両を間近で見学できるほか、車内の座席を「待合室」として使用できる。 屋外の駅前広場の歩行者道上と、待合室内の東側壁面の一部にはレンガ車庫のモニュメントが設置されている。キハ52形は館内に格納されており、レンガ車庫の左側アーチ内に入庫した状態を再現した外観となっている。 また土曜・休日の晴天時やイベント開催時などには車両移動機を使用し、車両全体を駅前広場の歩行者道へ移動させて屋外展示も実施される。 「ジオラマ鉄道模型ステーション」には糸魚川市周辺の沿線風景をテーマにした、NゲージとHOゲージのジオラマ各1セットからなる鉄道模型の展示コーナーがあり、来場者が持参した模型を実際に運転して楽しむこともできる。またタカラトミーの協力による「プラレール」の大型ジオラマコーナーも設けられており、クッションフロアでは市民やファンから寄付されたプラレールの部材を自由に組み合わせて遊ぶこともできる。 2020年8月10日には糸魚川産の杉材を外装に用いたトワイライトエクスプレスA寝台と食堂車を再現したモックアップ(2019年に六本木ヒルズ森タワーで開催された「特別展 天空ノ鉄道物語」での展示品を移設)、10月14日には糸魚川市内の東洋活性白土で運行されていた日本最後の産業用小型蒸気機関車「くろひめ号」が展示されている。 ジオパルの各施設はいずれも無料で利用できる。ただし鉄道模型の持ち込みと運転操作卓の使用については利用料金が別途必要となる。開館時間など詳細は#外部リンクを参照。 レンガ車庫. 駅南側にはかつて、総煉瓦造りの車庫が設けられていた。この「糸魚川駅機関車庫1号」、通称「レンガ車庫(赤レンガ車庫)」は1912年(大正元年)12月に竣工したもので、延床面積は812m2を有した。 両妻壁と桁下すべてが純煉瓦造で、機関車・客車の2両編成が3列格納でき、出入口は三連アーチを描いていた。建設から90余年を経過してもなお筐体の損傷が少なく、且つ現役の施設として供用され続け、加えてかつて全国各地に所在した同様の車庫はほとんどが廃止・撤去されていることから、全国的にも極めて貴重な存在となっていた。しかし北陸新幹線の工事進捗に伴い、構内の一部を新幹線ホーム用地とする必要が生じ、JR西日本と鉄道・運輸機構では車庫の撤去について検討を開始した。 しかしレンガ車庫は前述のように歴史的価値が高いことから、駅舎改築後に新設される南口駅前広場へ曳家方式で移築し、ランドマークの一つとして活用することを目指して地元の有志などが保存運動を展開し、地元の建設会社などが中心となって「レンガ車庫基金実行委員会」を設立し募金活動なども行われた。糸魚川市ではこうした動きを受けてレンガ車庫の移築について検討を進めたが、曳家による移築には3億円以上の費用が必要なことから、糸魚川市長(当時)の米田徹は2009年(平成21年)11月10日「曳家移築は不可能」との最終的な判断を下し計画の正式断念を発表した上で、部材の切り取り保存について引き続きJR西日本側と協議する意向を示した。 そして協議の結果「事業主体を市とすること」「切り取り保存の費用は市が負担すること」「切り取り保存工事が新幹線建設に支障を及ぼさないこと」の3点を条件に、JR西日本が市から工事を受託して計116 m2分の壁面を切り取り、市に無償譲渡することで合意に至り、米田は2010年(平成22年)2月25日の定例記者会見で、車庫西側の列車出入口全面と南側の壁面の一部を切り取り保存する方針を正式に表明し、新年度予算案に解体工事費1億円を盛り込んだ。こうしてレンガ車庫は同年3月のダイヤ改正をもって用途廃止となり、3月21日にJR西日本金沢支社主催の記念イベント「さよならコンサート」が開催された後に閉鎖され、4月中旬に切り取り保存の工程を実施した後、残存部は解体撤去された。なお撤去費用そのものは鉄道・運輸機構が全額を負担し、解体された煉瓦やレールなどの構造物はJR西日本から市に譲渡され、市ではこれらを後述の糸魚川市立糸魚川小学校敷地内のポケットパークの整備に際し再利用したほか、一部は記念品として加工のうえ、鉄道ファンや市民に向けて販売した。 この出入口面の外壁はアルプス口駅前広場のデザインに組み込まれる形で駅舎正面での復元再築が決まり、併せてアルプス口駅舎1階には前掲の「糸魚川ジオステーション ジオパル」の開設が決定、かつて大糸線を走行していたキハ52形気動車が静態保存されることになり、市に無償譲渡された同車両は廃車後に補修を受けた上で金沢総合車両所で屋内にて保管された後、アルプス口駅舎の建設進捗に伴い2014年(平成26年)11月26日に搬入された。 またレンガ車庫基金は部分保存という形で当初の目的を果たし、2014年春までに全国から約150万円を集めて募金活動を終了した。集まった基金はレンガ車庫の歴史や魅力を発信する映像ソフトの制作等に活用する目的で同年4月7日に市へ寄贈され、米田は「駅の魅力が高められるよう総合的な観点で検討し、行政としてできる範囲で生かしたい」との意向を明らかにした。 駅前広場に復元再築されたモニュメントは、裏面に設置された鉄骨の支柱によって自立しており、基礎部分や煉瓦の結着などに使用したコンクリートは駅西側に事業所を置く明星セメントが提供した。 貨物取扱. JR貨物の駅は現在、車扱貨物の臨時取扱駅となっている。ただし、接続する専用線や貨物取扱設備は当駅にはなく、貨物列車の発着もなくなっている。かつては専用線発着車扱貨物の取扱駅であり、当駅に接続する専用線が存在していた。 最後まで使用されていた専用線は、明星セメントが保有するものであった。同線は当駅から北陸本線の南に沿って西進、国道148号の高架橋下を通った後、南に方向を変え、明星セメント糸魚川工場へ至っていた。全長1.9kmでセメントの発送に使用されていたが、2003年(平成15年)3月15日限りで廃止された。 利用状況. 2019年(令和元年)度の糸魚川駅全体の1日平均乗車人員は1,172人である。 各年度の1日の平均乗車人員は以下の通りである。 駅周辺. 駅周辺は糸魚川市の中心部であり、市街地が広がっている。駅前広場には日本海口側、アルプス口側ともタクシーがほぼ終日にわたって待機している。 日本海口(北口)側. 日本海口側には駅前広場が整備されており、路線バスの発着点となっている。 駅から日本海へは直線で約400mと近接しており、北陸・上越両新幹線沿線各駅を通じて最も近い。この立地条件から糸魚川市では「日本海に一番近い新幹線駅」と銘打って、新幹線開業に向けて観光誘客や交流人口の拡大を図る施策を進めている。 駅前広場には相馬御風の歌碑が建立されている。日本海口から糸魚川バイパスの寺町交差点に至る、延長約450mの駅前通り(一般県道糸魚川停車場線)には1990年(平成2年)11月、「ヒスイロード」という愛称が命名され、同交差点までの自転車歩行者道沿いには左手に宝玉を掲げる奴奈川姫の像、ヒスイの原石、勾玉のモニュメント、市域で採取された岩石、海望公園(旧糸魚川市庁舎跡地)の奴奈川姫と建御名方命の母子像など、ヒスイやジオパークに関する200種類に及ぶストリートファニチャーが配置されている。また同交差点先の日本海展望台からは、好天時には北側は佐渡島や能登半島、南側は北アルプスの山々を望むことができる。 このヒスイロードの西側は2016年の糸魚川市大規模火災の焼失地域であり、復興の取り組みとして駅北広場「キターレ」や市民公園が整備された。 アルプス口(南口)側. 2014年9月14日に供用が開始されたアルプス口側の周辺は住宅地となっている。糸魚川市役所へはこちら側が至近である。 バス路線. 糸魚川市中心部を発着する路線バスは頸城自動車グループの糸魚川バスが、日本海口側駅前広場近くの「糸魚川駅日本海口」バス停留所を起点として全線を運行している。また頸城自動車は高速バス糸魚川線を1日2往復運行している。 日本海口側の一般路線バスは駅前広場ロータリー内の停留所から発着、高速バスはヒスイ王国館北側の市道沿いの高速バスのりば発(到着はロータリー内)となっている。2014年12月15日のダイヤ改正から一部路線バスのアルプス口への乗り入れが開始され、同時に日本海口側の停留所も「糸魚川駅前」から現名称に改称された。 物販. アルプス口駅舎2階、新幹線コンコースの自由通路沿いには「セブン-イレブン キヨスク」が出店している。同店はジェイアール西日本デイリーサービスネットグループのうち、JR西日本金沢支社管内の駅店舗の運営管理を手掛けるジェイアールサービスネット金沢が運営を行っており、JR西日本DSNグループが運営する駅店舗としては新潟県内唯一である。 かつては駅弁も販売されていたが、北陸新幹線開業前に業者が撤退したため販売は終了している。また、日本海口駅前「ヒスイ王国館」1階の「糸魚川観光物産センター」で販売されていた、糸魚川市蒲池(根知地区)に所在する「九郎右ェ門」が調製した「笹すし」も廃業により販売は終了した。 隣の駅. ※新幹線の停車駅は各列車記事を参照
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ジョルジ・アトーネリ
ジョルジ・アトーネリは、ジョージ王朝の僧侶、書家、宗教作家、神学者、翻訳者。彼はジョージアで最も影響力のあるキリスト教聖職者の1人であり、ジョージアとビザンツ帝国という異文化をつなぐ橋渡し的な役割を果たした。
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ヤマトグサ属
ヤマトグサ属(学名: )は、アカネ科に分類される植物の属の一つ。4種が東アジアとヨーロッパに隔離分布する。小型の草本で、葉は対生し、見かけはハコベに似る。雌雄同株で、葉腋に単性の花がつく。花被は1種類で、雌花は花被が合生する。雄花は花被が4枚ほどに分かれ、長い雄蕊が多数垂れ下がる。 かつては単型のヤマトグサ科(学名: Theligonaceae)に分類され、フトモモ目などに入れる考えもあったが、アカネ科に近縁と考えられるようになり、新しいAPG植物分類体系ではに分類されている。 種. 次の4種が認められている。
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みうら (輸送艦)
みうら(ローマ字:JDS Miura, LST-4151)は、海上自衛隊の輸送艦。みうら型輸送艦の1番艦。艦名は三浦半島に由来する。 艦歴. 「みうら」は、第4次防衛力整備計画に基づく昭和47年度計画輸送艦4151号艦として、石川島播磨東京第2工場で1973年11月26日に起工され、1974年8月13日に進水、1975年1月29日に就役し、自衛艦隊直轄第1輸送隊に編入され横須賀に配備された。 1992年、自衛隊カンボジア派遣のためにカンボジア派遣海上輸送補給部隊を編成、人員・車両を積載し1992年9月17日に「おじか」と共に横須賀を出港、途中で補給艦「とわだ」と合流、10月2日にカンボジアのシハヌークヴィル港に入港した。12月26日に横須賀に帰港。 1993年8月10日から「さつま」、補給艦「はまな」とともに、第2次カンボジア派遣海上輸送部隊の任務に従事し、同年10月6日に帰国。 1998年2月13日、退役した「あつみ」に代わって横須賀地方隊に直轄艦として編入された。 2000年4月7日、除籍。就役期間中の総航程は37万9,719浬、地球17.6周分に達した。
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ノイホーフ (フルダ郡)
ノイホーフ()は、ドイツ連邦共和国ヘッセン州カッセル行政管区のフルダ郡に属す町村である(以下、本項では便宜上「町」と記述する)。町名は現在この町の主要地区をなす旧3か村エラース、ノイシュタット、オペルツの伝統的な総称であった。 地理. 位置. この町の町名の由来となった主邑は、東のと西のフォーゲルスベルク山地との間の内、郡庁所在地フルダの南西約 15 km に位置している。 隣接する市町村. ノイホーフは、北はグローセンリューダーおよびフルダ、東はアイヒェンツェル、南東はカルバッハ、南はフリーデン(以上いずれもフルダ郡)、南西はシュタイナウ・アン・デア・シュトラーセ(マイン=キンツィヒ郡)、西はフライエンシュタイナウおよびグレーベンハイン(ともにフォーゲルスベルク郡)、北西はホーゼンフェルト(フルダ郡)と境を接している。 自治体の構成. エラース、ノイシュタット、オペルツからなるノイホーフは、同名の自治体の主邑である。この町にはこれ以外にドルフボルン、ギーゼル、ハッテンホーフ、ハウスブルツ、カウペン、ロンメルツ、ティーフェングルーベン地区が含まれる。 人口10,906人(2016年6月30日現在)のノイホーフは、キュンツェル、ペータースベルク、アイヒェンツェルに次いでフルダ郡で4番目に大きな町村である。地区別人口は以下の通りである。 歴史. 中世から近世. 概要. ノイホーフは、1000年以上の歴史を有している。現在のノイシュタットが956年に初めて文献に記録されている。エラースは1165年に "Elderiches" として初めて記録されている。 ノイホーフという名称(、中高ドイツ語: Nuwenhof)は1239年に初めて記述された。これは貴族家のフォン・ノイホーフ家()およびフルダ領主修道院長の同名の水城に由来する。この水城は元々は城砦として建設された。ノイホーフ家の祖先はおそらく城吏であった。1250年頃に修道院長ハインリヒ4世フォン・エルタール(1249年 - 1261年)が、ノイホーフ城館を城壁、鋸壁、堀で護りを固めた。 ノイシュタットとエラースの他に、城館の近くに集落オペルツが形成された。この集落は1326年に初めて記録されている。水城はおそらく、旧ゲリヒト・フリーデン(ゲリヒトは司法を基本とする地方行政単位)の行政管区の中心であった。特にフルダでペストが猛威を振るった時代(たとえば、1597年や1611年)にはフルダ司教領の行政機関や官房がノイホーフ城に避難してきた。 歴史的な街道. 現在のノイホーフ町の集落は、中世には 2つの古い街道(フランクフルト・アム・マインからライプツィヒへの「ケーニヒスシュトラーセ」(王の道)あるいは「ライヒスシュトラーセ」(帝国の道))。「アルテ・ヘールシュトラーセ」(古い軍隊の道)とも呼ばれる)と "Antsanvia"(マインツからアイゼナハへの交易路。「アルテ・シュトラーセ」(古い街道)とも呼ばれる)の交差する地点に面していた。 さらにヴィア・レギアに沿ってフルダとフランクフルト・アム・マインとの間にヤコブの巡礼路が通っていた。現在、ヴィア・レギアのコース沿いには「Des Reiches Straße」(帝国の道)という標識が建てられている。 19世紀. 皇帝フランツ2世の下で1801年にリュネヴィルで締結されたフランスと神聖ローマ帝国との平和協定によって、ナポレオンによるドイツの世俗化が始まり、聖界諸侯領は世俗諸侯に分配された。これにより、それまで独立していたフルダ修道院領とこれに付属する地域は1803年にヴィルヘルム・フォン・ナッサウ=オラニエの所有となった。これによりノイホーフもフルダによる特権と責務を失った。1806年、ナッサウ=オラニエ公はナポレオンおよびフランスの意を受けたライン同盟に加わらず、このため旧フルダ司教領はナポレオンの直接保護下に置かれた。1810年フランクフルト大公国が建国されると、他の都市や司教領主領と同じようにフルダもカール・テオドール・フォン・ダールベルクの統治下に加わった。その後郡内の村にも初めて自治行政機関が構築された、そのトップにはフランス人の地区責任者、村長、町長が就いた。旧フルダ司教領は、1816年に、1866年にプロイセン領となった。 20世紀. 自治体ノイホーフの成立. ノイホーフ町の主邑は、1928年11月15日にカッセルの県令の指示により、それまで独立した自治体であったエラース、ノイシュタット、オペルツが合併して成立した。 地域再編. ヘッセン州の地域再編に伴って、1972年1月1日にそれまで独立した町村であったドルフボルン、ギーゼル、カウペン、ティーフェングルーベンが合併して拡大自治体ノイホーフとなった。州法の発効に伴い、1972年8月1日にハッテンホーフ、ハウスヴルツ、ロンメルツがこれに加わった。 住民. 宗教. カトリック教会. 行政上のノイホーフの町域は、フルダ司教区の3つの首席司祭区および4つの司牧連合に属す5つの教会区にまたがっている。 主邑のノイホーフには、ノイホーフ=グローセンリューダー首席司祭区およびカルバッハ=ノイホーフ聖霊司牧連合に属すカトリックの聖ミヒャエル教区がある。この教区には、聖ミヒャエル教区教会、オペルツの教区センター、エラースの聖バルバラ支教会、ドルフボルンの労働者聖ヨハネ(ナザレのヨハネ)支教会、ティーフェングルーベンの聖マリア無原罪のお宿り礼拝堂が属している。信者数は約 4,400人を数える。これはこの町の住民の約 77 % にあたる。この首席司祭区および司牧連合には、この他にロンメルツのマリア被昇天教区が属している。この教区は2005年から主邑ノイホーフの聖ミヒャエル教区が宗教活動を支援しており、両者の共同運営となっている。 ノイホーフ=グローセンリューダー首席司祭区は、ハウスヴルツのカトリック聖バルトロメウス教区も含んでいる。この教区は、隣のフォーゲルスベルク郡ヴァイデナウの天の女王マリア支教会を有している。この教区も2017年からノイホーフの聖ミヒャエル教区が宗教活動を支援しており、両者の共同運営となっている。教会堂を持たないカウペン集落は、ハウスヴルツの聖バルトロメウス教区に属している。 フルダ首席司祭区およびフルダ=ヴェスト・パドヴァの聖アントニウス司牧連合には、2012年からフルダ=ハイムバッハの聖マルクス教区が宗教活動を支援しており、共同運営となっているギーゼルの聖ラウレンティウス教区が属している。また、レーン首席司祭区およびアイヒェンツェル聖マリエン司牧連合に属すハッテンホーフの聖コスマスおよびダミアン教区がある。 かつてのフルダ=イステルギーゼルの支部教会ギーゼルのマリエ・ゲブルト教会は、2006年にフルダ首席司祭区およびヨハネスベルク司牧連合に属した。その宗教活動はフルダ=ヨハネスベルクの洗礼者聖ヨハネ教区の支援を受けており、両者の共同運営となっている。 福音主義. ノイホーフには福音主義の教会組織が1つあり、エラースに教区教会と青年の家、ロンメルツに集会所、フリーデンに支教会を有している。 かつてのユダヤ教会. 1938年までノイホーフにはユダヤ教会が存在した。この教会は、ノイシュタット地区の現在のマルクト通り(当時はフランクフルター通りと呼ばれた)にシナゴーグ(1876年完成)を有していた。その成立は1563年まで遡れることが証明されている。この教会にはノイホーフに住むユダヤ人が属していた。 1938年11月9日から10日の「水晶の夜」にシナゴーグは毀損され、内部の調度は破壊された。建物に放火はされなかった。ノイホーフには当時48人のユダヤ人が住んでいた。その後1942年に残っていたユダヤ人もノイホーフから移送された。 戦争末期に、空き家となっていたかつてのシナゴーグは、違法に住居に改築された。シナゴーグの建物は1945年以後も存在し、1956年にL-型になった。その後個人が購入し、増改築によって外観が大きく変更され、旧シナゴーグとは判らなくなった。増改築の結果は、住居・オフィスの長辺側に見られる。 改築されたにもかかわらず、現在も約 80 % の旧シナゴーグの建築が残されている。当時の儀式用の水槽(ミクワー)は2008年のリノベーション工事の際に、フルダの建築監査官フリードリヒ・ホフマンの設計図に基づいて測量がなされ、一部が再び公開された。案内板や追悼のプレートは設けられていない。 フリーデン町内ノイホーフとフリーデンとを結ぶ州道(旧連邦道 40号線)の高台に1905年に設けられたユダヤ人墓地は現存している。 行政. 議会. ノイホーフの町議会は 37議席で構成されている。 首長. ヘッセン州自治体法によれば、首長は、市町村議会の長であり、ノイホーフでは町長の他に6人の名誉職の助役がいる。 町長のハイコ・シュトルツ (CDU) は2016年9月18日に 63.0 % の票を獲得して町長に選出された。この選挙の投票率は 50.7 % であった。彼は2017年2月1日に正式に町長に就任した。 1945年以降の町長 紋章と旗. 図柄: 金地と緑地に上下二分割。上部は互いに組み合わされた3つの黒い輪と斜め十字に配された黒いハンマーと黒いシュレーゲル(ハンマーの一種)。下部は端まで伸びる金の十字。 ヘッセンの紋章台帳には、1953年に認可された紋章が記述されている。しかし、1963年に内務大臣の許可を得て、上記の異なる配置の紋章に置き換えられた。3つの組み合わされた輪は、1928年にそれまで独立していたエラース、オペルツ、ノイシュタットが合併してノイシュタット町が形成されたことを示唆している。鉱山用具は地元のカリ産業を象徴している。紋章下半分の十字はフルダの紋章の色違いである。 旗の図柄: 黒と金色の横縞に紋章。 文化と見所. 建築. この町の象徴的建造物は、オペルツのカトリックの聖ミヒャエル教区教会と、ノイシュタットのノイホーフ城の現存する4つの塔である。ノイホーフ城の主館は1958年に取り壊されており、その跡地には現在シュロスシューレ(ノイホーフ基礎課程学校)がある。 聖ミヒャエル教区教会は三廊式列柱バシリカである。この教会は1831年に建設され、1909年から1911年に拡張された。ファサードは3体の砂岩の彫像によって飾られている。印象的なのは、尖頭屋根を戴いた3階建ての後期ゴシック様式の西塔である。この塔は、オペルツの墓地に平屋の小さな礼拝堂を持つ防衛教会として建設され1409年に大天使ミカエルに献堂された。 バロック様式の半円筒形ヴォールトを有する長堂は簡素な姿である。その調度は様々な時代に製作された。特筆すべきは、たとえば、身廊の後期バロック様式の使徒像である。後期ゴシック様式のは1503年に創られた。 音楽. ノイホーフには、教会・世俗の両面で伝統的に活発な音楽生活が成立している。合唱クラブ「ツェツィーリア」(1907年設立)やユーゲン・カントライ聖ミヒャエル(1998年設立)の他、主邑ノイホーフにはアコーディオン・オーケストラ、ブラスオーケストラ、音楽・ファンファーレ隊があり、さらにロンメルツにブラスオーケストラが、ギーゼル、ハッテンホーフ、ハウスヴルツの各地区に音楽クラブがある。また、ドイツ全土で活動するビッグ・バンド「フォアジヒト・ゲプレーゼ」がある。 若い音楽家を奨励するクラブは、新たな音楽的才能の育成に携わっている。 レジャーとスポーツ. ノイホーフのスポーツおよびレジャー施設は、2つのスタジアム、5つのスポーツグラウンド、6つの体育館、4つのボルツ場、2つのテニスコート、1つの室内テニス/スカッシュ場、多くのケーゲル・レーン、1つのストリートボールおよびインラインスケート場、1つのグリル場がある。大きなスポーツイベントは、ヨハネス=ケプラー=シューレの客席約900席のフィーア=フェルダー=ハレで行われる。護身術、格闘技、フィットネスのためのスポーツ学校がある。 観光アトラクションは、1999年にオープンした自然科学学習路「惑星の道」がある。これはヨハネス=ケプラー=シューレからオペルツァー・ベルクの麓をたどり、カルバッハのアイヒェンリート地区に至る。 ノイホーフは、リューデスハイム・アム・ラインを起点とし、タン (レーン) に至る全長 240 km のライン=マイン=キンツィヒ自転車道沿いにある。 経済と社会資本. 下級中心としての機能. ノイホーフ町は、下級中心として、フルダ郡南西部の人口約25,000人相当の地域の中心的機能を担っている。ここには、医院 10院、歯科医院 2院、薬局 2軒、老人介護センター 1軒、教会堂 9棟、郵便局の支局 1か所、駅 1か所、多くの食料品マーケット、銀行、学校 5校、フルダ郡の市民大学分校、幼稚園 6園、町立センター 1軒、公民館 7軒、町立図書館 3館、交番 1か所、道路管理事務所出張所 1か所、山林管理事務所(フルダ営林署管区) 4か所、多くの旅館がある。 しかし、上級中心都市フルダに近いことが、他の要因とともに、ノイホーフが直近の数十年間にいくつかの起業や公共施設を失うことにもつながっている。かつて存在した大きな企業には、ゲブリューダー・フリッケのレーンゴルト=モルケライ(乳製品工場)、食肉加工業者ヨーゼフ・ルッペル、材木商レショップがある。また、かつてノイホーフには、2つの営林署、フルダ区裁判所の支所、屋内プール、郵便局、バームヘルツィーゲ・シュヴェステルンの老人ホームを併設した支社があった。この他にノイホーフ・ライフアイゼン銀行 eG の自立性も失われた。 フルダ南西地域フォーラム. 地域開発のためにノイホーフは、1998年5月にバート・ザルツシュリルフ、アイヒェンツェル、フリーデン、グローセンリューダー、ホーゼンフェルト、カルバッハとともにフルダ南西地域フォーラムを結成し、自治体作業共同体を形成した。この共同体が2006年に登録協会に移行した後、郡手工業者協会、郡農業従事者連合、自然保護連合の作業共同体がこれに参加した。この地域フォーラムは2007年にヘッセン州から、地方経済発展のための共同体主導の に基づき欧州共同体の振興地域として指定され、2008年から2013年までの支援期間の様々な施策に対する支援金として160万ユーロが支給された。 2008年からこの地域フォーラムはヘッセン地域フォーラム協会 (HRF) e.V. に加盟している。 7町村は以下の課題に共同で取り組んでいる 鉱業. ノイホーフは、フルダ郡唯一の鉱山町である。ノイホーフ=エラース・カリ工場では、約750人の従業員によってが生産され、化学肥料に加工されている。ノイホーフ=エラースは、年間約400万トンの原料から約130万トンの製品を製造している。この工場は、郡南部最大の工業系企業である。現在この工場は、カッセルの (旧カリ・ウント・ザルツ AG および)に属している。地元では「モンテ・カリ」とも呼ばれるボタ山は遠くから観ることができ、特徴的な景観要素でランドマークとなっている。アウトバーン A66号線をディステルラーゼンから来ると、インターチェンジ Nr. 49 シュリュヒテルン北インターチェンジ付近からフルダ方向に視界に入る。ICE フルダ - ヴュルツブルク線でも北のフリーデタール橋付近から見える。高さ海抜 200 m から 500 m のこのボタ山は、約1億2500万トンの物質、主に岩塩、硬石膏、粘土、その他の物質と水でできている。従って、これはヨーロッパ最大級のゴミ集積場の1つである。毎年240万トンが新たに積み上げられる。ボタ山の総面積は現在、約 90 ヘクタールである。カリ工場は、アウトバーン A66号線のノイホーフ南インターチェンジ経由で全国的な道路網と結ばれている。 カリ工場の歴史. 1905年にカリ採掘会社ノイホーフ(1905年12月からノイホーフ共同鉱山会社)が設立され、1909年6月までに最初の557 m の坑道が掘られた。1906年11月には既に、坑外の運営用建造物がすべて完成した。1910年からノイホーフとエラースの2つの鉱山会社が成立した。これらの会社は経営上は一体化されていた。1912年3月に深さ 552 m のエラース坑の採掘が始まったが、第一次世界大戦のために1920年に閉鎖された。 1926年6月末、この鉱山はドイツ・カリシンジケートの法的に定められた採掘配分に基づき閉鎖されたが、ヴィンタースハル AG により予備工場として稼働可能な状態で保持された。ヴィンタースハル AG は1935年2月1日にエラース坑とノイホーフ坑を、1937年4月1日には工場施設と坑内施設の大部分を軍が自由に使えるようにした。この鉱山はドイツ国防軍の弾薬庫に改造され、1939年9月に完成した。4万平方メートルの土地と2本の坑道内に弾薬やいわゆる軍需物資が保管された。1944年6月の段階でも、この弾薬保管庫には14,000トンの火薬や弾薬が保管されていた。この頃から坑道は軍需工場の地下への移転に利用されるようになった。 1944年9月23日の軍需品管理部の意向を承けて、陸軍総司令部はエラース坑をフランクフルト・アム・マインの戦車製造業者アドラーヴェルケに譲渡した。暗号名「シャカール」(ジャッカル)という製造計画がトート機関の指揮下で立案された。坑道施設改造のためにイタリアの政治犯収容者やいわゆる「半ユダヤ人」が強制労働者として働かされた。ノイホーフ駅への空爆や進軍してくるアメリカ軍により、改造工事は1945年3月末に中止された。 軍事的利用を理由に、鉱山の坑道は1945年以後注水されることになっていた。1946年に保管されていた爆薬類は STEG に譲渡された。ヴィンタースハル AG への返却は、1952年に実現した。ヴィンタースハル AG は DDR地域にあるカリ鉱山を失ったため、ノイホーフ鉱山の再開を決定した。戦争による被害を修復した後、1953年にノイホーフの加工場の債権が始まった。1954年10月にこの鉱山は操業を再開した。 交通. バス路線 / 公共旅客近郊交通. ノイホーフには、隣接する集落への地域近郊交通会社フルダ (LNG フルダ) mbH の停留所や乗り換え所が数多くある(50番から54番路線)。
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ダルトン・アカデミー校 ウォーブラーズ
ダルトン・アカデミー校 ウォーブラーズ(ダルトン・アカデミーこう ウォーブラーズ、英語:)は、アメリカ合衆国のグリークラブ。オハイオ州ウェスタービルにある架空の私立学校にあるア・カペラグリークラブである。 概説. 彼らは『グリー』でシーズン2の「初めてのキス」で初登場した。そのエピソードでは、2年生のリードシンガーとしてダレン・クリスが演じるブレイン・アンダーソンが登場した。また、ケイティ・ペリーの「」のカバー曲を披露した。この時、ウォーブラーズの俳優はマサチューセッツ州サマービルにあるタフツ大学のア・カペラ部によって提供された音を口パクで歌っていた。 番組に出演しているダレン・クリスとクリス・コルファーがリードを務めた、ウォーブラーズ名義のシングルソングは2011年3月までに130万曲を売り上げた。彼らのファースト・アルバム『』は2011年4月19日にコロムビア・レコードによって発売され、発売第一週目に86,000枚を売り上げ、『』で2位、『』のサウンドトラック部門で1位を獲得した。
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ヴァウブジフ
ヴァウブジフ ( , )は、ポーランド南西のドルヌィ・シロンスク県の都市。ドイツ語名ヴァルデンブルク。 概要. 語源. ポーランド語のWałbrzychは、市のドイツ語名ヴァルデンブルク(Waldenburg)がシレジア方言でWalbrichと呼ばれるので、その名前をポーランド語化したものである。ヴァルデンブルクとは『森の城』を意味する。 歴史. 中世. ヴァウブジフの名が記録された最古の物は12世紀に遡る。 12世紀から14世紀にかけて、町はシフィドニツァ=ヤヴォルから来たピャスト朝の公爵によって支配され、クションシュ城とノヴィ・ドヴル要塞が建設された。 ドイツの都市ヴァルデンブルクは15世紀に都市の特権を認められた。ピャスト家が断絶すると、のちにヴァルデンブルクはシレジアの貴族の財産となった。1941年まで城の所有者だったのは、ホーホベルク家である。 一帯で炭鉱が最初に言及されたのは1536年である。 近代. ヴァルデンブルクは東部ドイツの産業中心地に転じ、19世紀には石炭が豊富にあることから織物業が繁栄した。 1843年、市に初の鉄道が引かれてブレスラウと連結した。 20世紀初頭には現在も稼働しているガラス工芸と、巨大な陶器テーブルウェア産業が起こり、工場が建てられた。 1939年、市にはおよそ65,000人の人口があった。 現代. 市は比較的第二次世界大戦の被害を受けなかった。住宅の再建と町の行政地区が近いことから、その結果ヴァウブジフは地理的に拡大した。 1990年代始め、新たな社会的・経済的状況となり、町の炭鉱の閉鎖が決まった。 1995年、産業工学博物館が開館した。 現在の主要産業は自動車工業で、トヨタの大規模な自動車用エンジン工場とその下請け企業が集積して栄えている。
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皇后崎町
皇后崎町(こうがさきまち)は福岡県北九州市八幡西区の町名。住居表示実施済み。郵便番号は806-0041。 地理. 八幡西区の北部に位置し、北に大字熊手、東に桜ケ丘町、南に萩原、南西に穴生、西に陣原と接する。 河川. 二級河川割子川 地域の特徴. 北をJR九州、東を筑豊電気鉄道、南を国道3号、西を割子川に囲まれた地域である。北東部は小高い丘になっており、金光教南八幡教会やマンションがある。国道沿いには自動車販売店や自動車整備工場などが建っている。 歴史. 1914年(大正3年)に西鉄北九州線が開通した際に、当町域に皇后崎停留場,皇后崎変電所が設置され、その頃から皇后崎と通称されていた。なお、西鉄北九州線は2000年に路線廃止となり、皇后崎停留場も廃駅となっている。 地名の由来. 三韓征伐の際に神功皇后が兵船を寄せられたことにちなんでおり、町内に上陸記念碑がある。 世帯数と人口. 2023年(令和5年)3月31日現在(北九州市発表)の世帯数と人口は以下の通りである。 人口の変遷. 国勢調査による人口の推移。 世帯数の変遷. 国勢調査による世帯数の推移。 学区. 市立小・中学校に通う場合、学区は以下の通りとなる。
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パンチェッタ
パンチェッタ()は、豚のバラ肉のこと。またそれが転じてイタリア料理に使う塩漬けした豚バラ肉も同様にパンチェッタと呼ばれる。後者は俗に生ベーコンとも呼ばれる。 豚肉(特にバラ肉)の塊に荒塩をすり込み、1ヶ月以上熟成と乾燥をさせて仕上げる。燻煙する場合もあり、パンチェッタ・アッフミカータ(Pancetta affumicata)と呼ぶ。 細かく切ってフライパンで炒め、にじみ出た脂と塩味をカルボナーラなどのパスタソースやスープの出汁として利用する。またそのまま薄切りにして生ハムのように食べる。ベーコン に比べてやや酸味が効いているのが特徴。 DOP指定のものには、カラブリア州のパンチェッタ・ディ・カラーブリア(Pancetta di Calabria)や、パンチェッタ・ピアチェンティーナ(Pancetta Piacentina)等がある。
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鳥取県道37号岩美八東線
鳥取県道37号岩美八東線(とっとりけんどう37ごう いわみはっとうせん)は、鳥取県岩美郡岩美町から八頭郡八頭町に至る県道(主要地方道)である。 概要. 路線データ. 鳥取県告示に基づく起終点および経過地は次のとおり。 歴史. 本路線は主要地方道国府八東線の一部、県道上地栃本線、県道下木原岩美停車場線の一部を前身としている。道路法第56条の規定に基づき、1993年(平成5年)の第6次主要地方道指定時に新規指定された路線である。国府八東線の残部は鳥取県道154号上地中河原線、下木原岩美停車場線の残部は鳥取県道186号岩美停車場河崎線にそれぞれ認定されている。
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ヒット歌謡No.1
『ヒット歌謡No.1』(ヒットかようナンバーワン)は、1970年4月1日から1971年9月29日までTBS系列局で放送されていたTBS製作の音楽番組である。放送時間は毎週水曜 21:00 - 21:30 (日本標準時)。 概要. 3人の落語家を司会に起用した異色の公開音楽番組で、毎回3 - 4人の歌手たちによる歌を挿みながらマンスリーゲストの「今月の歌」を紹介していた。 当時はプロ野球ナイター中継が20:00 - 21:26に編成されていたため、その影響で放送休止になる場合があった。
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伊藤弘之
伊藤 弘之(いとう ひろゆき、1963年4月1日 - )は、現代音楽の作曲家。山形県出身。 略歴. 父親は作曲家の伊藤俊幸。 カリフォルニア大学サンディエゴ校音楽学部大学院博士課程修了。博士号(Ph.D.)を得る。 作曲を池辺晋一郎、湯浅譲二、ロジャー・レイノルズ、ブライアン・ファーニホゥに師事。ヌオヴェ・シンクロニー国際作曲コンクール第1位(1995年ミラノ)、シュティペンディエン賞(1996年ダルムシュタット)、第8回芥川作曲賞(1998年)、ISCM World Music Days入選(2000年ルクセンブルク大会、2004年スイス大会)など入賞・入選多数。 現在は作曲活動と並行して、日本大学藝術学部教授、東京藝術大学音楽学部非常勤講師を務める。 活動. 秋吉台フェスティヴァル、横浜市文化振興財団、サントリー音楽財団、Orkest de Volharding、クラングシュプーレン音楽祭、ミュージック・インやまがた、埼玉近代美術館、紀尾井ホール・いずみホールなどから作品委嘱を受けるほか、新日本フィル、東京シティフィル、神奈川フィル、大阪シンフォニカー交響楽団、山形交響楽団、いずみシンフォニエッタ大阪、アールレスピラン、アンサンブル秋吉台、Nieuw Ensemble (アムステルダム)、Klangwerkstatt Weimar (ドイツ)、Klangforum Wien(ウィーン)、アルディッティ弦楽四重奏団など、国内外の主要なオーケストラや演奏団体により作品が取り上げられている。
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中村洋基
中村 洋基(なかむら ひろき、1979年2月27日 - )は、日本の広告クリエイター。PARTYファウンダー/クリエイティブディレクター。外部顧問として、株式会社ヤフー マーケティングソリューションズ統括本部エグゼクティブ・クリエイティブディレクター、株式会社電通デジタル 客員エグゼクティブ・クリエイティブディレクター、株式会社VALU取締役。 経歴. 1979年、栃木県足利市生まれ。実家はとんかつ屋。栃木県立足利高等学校を卒業後に上京し、早稲田大学第一文学部に入学。 大学在学中は演劇の道に進み、やがては劇作家や演出家になろうと考えていたが、当時加入していた劇団が解散してしまった為、進路を変更。大学2年生のときにビデオジョッキーソフト「motion dive 2」のプログラムにサポートとして加わり、2000年よりフリーランスのWebデザイナー・プログラマーとして活動を開始。 1年留年後に大学を卒業、ニッポン放送を経て、電通で月・水・金アルバイトのウェブデザイナーとして参加。当初の仕事は、プレゼン資料の一部をアニメーション化することだった。そのあとバナー広告で数々の広告賞を受賞し、5年ほど経験を積んだ後に正社員となった。 次第にキャンペーン全体を手がけるテクニカルディレクターとして活動するに至った。 2004年、2006年、2008年、カンヌ国際広告祭ヤングコンペティション、サイバー部門日本代表。2006年と2008年はともに世界2位(世界一位はともにブラジルだった)。 その後、電通を退社し、2011年4月独立。伊藤直樹、清水幹太、川村真司らと「PARTY」を設立。クリエイティブディレクターとして、東京を拠点に活動中。 2016年11月、PARTYの社内ベンチャーとしてVALUプラットフォームを創業。自身も取締役として参加後、事業を小川晃平氏に譲渡。 2017年7月、電通デジタルの顧問に就任し、2019年8月にはヤフーのエグゼクティブクリエイティブディレクターに就任。 前職の電通で、スタートアップアクセラレーションプログラム「GRASSHOPPER」を立ち上げ。 TOKYO FM「澤本・権八のすぐに終わりますから。」第2回以降、毎週ゲストという名目で、司会進行を務める。 300以上の国内外広告賞の受賞歴があり、審査員歴も多数。 主な作品. デジタルキャンペーン. 「TEHAI」 「バレンタインポスト」 「ファミペイすげー得チャレンジ」 「バーチャル大合唱」「#見たことのない新聞広告」 主な受賞・審査員歴. 受賞歴は金、銀、銅賞受賞以上のみ。チームでの受賞を含む。作品名の横に広告主を記載。
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マーガレット・マクミラン (保育者)
マーガレット・マクミラン (Margaret McMillan、 、1860年7月20 日 - 1931年3月27日)は、保育学校(nursery school、今日の保育園の先駆)の創立者で1906年制定の学校給食法のためのロビー活動でも知られる児童福祉制度の整備に貢献した女性社会事業家。「保育学校協会」の初代会長。 彼女はロンドンの恵まれない地区、特にデプトフォードとブラッドフォードで働き、幼児の健康を改善するための改革に熱心に取り組み、保育園教育に関する本を何冊か執筆し、後になってようやく広く受け入れられるようになった遊び中心のアプローチを開拓した。 生涯. マーガレット・マクミランは、1860年7月20日にニューヨーク州ウエストチェスター郡のジェームズとジャン・マクミランに生まれた。彼女の両親はインバネス出身だったが、1840年に米国に移住した。 彼女が4歳のとき、猩紅熱熱の流行で、父と妹はマーガレットを残して亡くなり、とマーガレットは聴覚障害になった(彼女は14歳で彼女の聴力を回復した)。 その後、マクミラン夫人は娘のマーガレットとレイチェル・マクミランと一緒にスコットランドに戻り、そこで2人ともインバネス高校に通った。マクミランの母親ジャン・マクミランは1877年に亡くなった。 マクミランは心理学と生理学を学び、続いてドイツに留学し言語と音楽を学んだ。 イギリスに帰国後、富裕層のガヴァネス(女性家庭教師)となる。1887年にマクミランはキリスト教社会主義を教えられ、ウィリアム・モリスとウィリアム・トーマス・ステッドの記事を読み、1888年7月以降ロンドンでその同志に加わった。彼女たちは政治集会に参加し、そこでモリス、ヘンリー・ハインドマン、ピョートル・クロポトキン、ウィリアム・ステッドとベン・ティリレットに会った。1889年、マクミランと妹は、の最中に労働者たちを支援した。 1892年に彼らはブラッドフォードに引っ越した。そこで彼らはフェビアン協会、労働教会、社会民主連合と独立労働党(ILP)の結成に参画した。 マクミランは、ブラッドフォードの学校の医療責任者であるジェームズ・カーとともに、英国で最初の小学生の健康診断を実施した。ブラッドフォード・シンデレラクラブが恵まれない子供たちに温かい食事を提供することに成功した後、彼らは報告書を発表し、地方自治体がバスルームを設置し、換気を改善し、子供たちに無料の学校給食を提供するキャンペーンを開始した。 1902年、姉妹は結成されたばかりの労働党に加わり、ジェームズ・ケア・ハーディとジョージ・ランズベリーと協力した。マクミランは健康と教育に関する本を執筆し始めた。1904年に彼女は彼女の最も重要な書籍、『想像力を通しての教育』(Education Through the Imagination)と『児童労働と教育の経済的側面』(The Economic Aspects of Child Labour and Education)を出版する。マクミランの著作とキャサリン・グラシャーとの共同のキャンペーンによって、イギリス議会下院は学校給食法(1906年)を通過させた。 1908年にマクミランと彼女の妹はロンドンのボウ地区にイギリスで最初の学校クリニックを開き、1910年にデプトフォードクリニックがこれに続いた。スラム街の子どもたちが寝間着を洗ったり、きれいになったものを着ることができる「ナイトキャンプ」も始まった。 1911年に刊行された『子どもと国家』の中でマクミランは、学校は不慣れで、単調な仕事のために子どもを準備させるのではなく、広範で人道的な教育を提供すべきであると主張した。 マクミランと彼女の妹は普通選挙の実現のためのキャンペーンを行った。マクミランは、猫と鼠法によって女性の社会政治連合のメンバーが刑務所で酷い扱いを受けたことに抗議している最中に負傷した。 1914年に、姉妹は18か月から7歳までの子供どもと大人の訓練生のために、デプトフォードに野外保育園と訓練センターを設立した。マクミランは、バーナード・ショーやウォルター・デ・ラ・マーレなどの人物をデプトフォードの聴衆への講演のため招聘した。1917年3月25日、姉のレイチェル・マクミランが死去した。マクミランは引き続き保育園を運営しており、姉にちなんでレイチェル・マクミラン野外保育園と名付けた。 デプトフォードにあるマーガレット・マクミランの保育園は、1917年に地方教育当局(LEA)の資金提供を受けた最初の保育園となった。 1922年、彼女はミリセント・マッケンジー教授を通じてルドルフ・シュタイナーの仕事に触れ、教育における精神的価値の実現のためのイニシアチブ教育連合に参加し、主催者の1人になり、シュタイナーが講演を行った1923年のイルクリー会議を主宰した。シュタイナーはマクミランが行っていた仕事を認め、その後の報告で彼女を教育の天才と呼んだ。マクミランはスイスのドルナッハを訪れ、最初のウォルドルフ学校を見学した。 彼女は人智学の仕事とのつながりを維持し、シュタイナー学校の運動が拡大していくのを支援した。後年、彼女は看護の仕事に興味を持ち、ロイズ( Lloyds of London)の経済的支援を得て、1930年5月にデプトフォードで看護師と教師を訓練するためにレイチェル・マクミランカレッジを設立した。 マクミランは1931年にロンドンのハローで亡くなった。 遺産. マーガレットの姉にちなんで名付けられたレイチェル・マクミランカレッジは、1930年に設立され、1970年代にゴールドスミス・カレッジと合併した。 1936年5月初旬、ヨーク公はマーガレット・マクミランハウス(Margaret McMillan House)を開館した。マーガレット・マクミランを記念して作られた最初の専用屋外センターである。センターは現在、さまざまなアドベンチャーベースのアクティビティを提供する慈善団体Widehorizons(Widehorizons)の一部となっている。 マーガレット・マクミランを記念する大学が1952年にブラッドフォードに開設された。 イングリッシュ・ヘリテッジがイギリス国内でかって著名人が住んだ建物に設置しているブルー・プラークは、ブロムリー区トゥイーディ通り51でマクミランと姉レイチェルがかつてそこに住んでいたことを今に伝えている。 彼女にちなんで名付けられた公園は、チャールズ・ブース(社会改革者)が公開した貧困マップに示されているように、かつてデプトフォードで最も恵まれなかった通りの1つであった場所にある。 参考文献. "Margaret Macmillan: Portrait of a Pioneer" by Elizabeth Bradburn. Routledge (April 1989)
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ブラッドリー・ジョンソン
ブラッドリー・ジョンソン(Bradley Johnson 、1987年4月28日 - )は、イングランド・ロンドンハックニー区出身のプロサッカー選手。ミルトン・キーンズ・ドンズFC所属。ポジションは、MF。 経歴. クラブ. アーセナルFCの下部組織でプレーを始めたが、15歳で退団。 アーセナル退団後、ノンリーグのチームで数試合に出場。その後ケンブリッジ・ユナイテッドFCのユースチームに入団した。2005年5月にノーサンプトン・タウンFCとプロ契約を締結。2008年1月、レスター・シティFC移籍がまとまりかけていたが、結局合意に達することはなかった。レスターとの契約破断直後、リーズ・ユナイテッドAFCに移籍。移籍金は25万ポンドで契約は3年半。 2011年7月、ノリッジ・シティFCに移籍。2015年9月、ダービー・カウンティFCに移籍。 2019年7月、ブラックバーン・ローヴァーズFCに移籍。 2022年7月15日、ミルトン・キーンズ・ドンズFCに移籍。 代表. 祖父がアメリカ出身であるため、2010 FIFAワールドカップにアメリカ代表として参加する可能性が報じられたが、結局実現することはなかった。
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木村睦男
木村 睦男(きむら むつお、1913年(大正2年)7月29日 - 2001年(平成13年)12月7日)は日本の政治家、運輸官僚。参議院議員、参議院議長、運輸大臣、自由民主党参議院議員会長を歴任。 来歴・人物. 岡山県阿哲郡千屋村(現・新見市千屋)出身。東京帝国大学法学部卒業。 田中派に属し、ロッキード事件では公判に証人として立ち田中角栄を擁護した。1987年7月4日、竹下登、金丸信らによる新派閥「経世会」が結成され、田中派が竹下派、二階堂グループ、中立系の3派に分裂した際は二階堂グループにはついていかず、中立系に属した。 自民党系の改憲団体で、「自主憲法期成議員同盟」(現「新憲法制定議員同盟」)の関連団体である「自主憲法制定国民会議」(現「新しい憲法をつくる国民会議」)会長をつとめ、憲法改正私案を発表するなど改憲論者であった。 秋山長造は、同一選挙区における長年のライバルとして知られた。
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はと座の恒星の一覧
はと座の恒星の一覧(はとざのこうせいのいちらん)は、はと座の恒星を明るさの順に並べたものである。
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大阪市交通局6000形電車
大阪市交通局6000形電車(おおさかしこうつうきょく6000がたでんしゃ)は、大阪市交通局で使用されていた高速電気軌道(大阪市営地下鉄)用通勤形電車である。 本項では同形式の増備車両として位置付けられる6100形電車についても記述する。 6000形(→800形). 1961年(昭和36年)の大阪市営地下鉄4号線(現在の中央線)大阪港 - 弁天町間開業に伴いナニワ工機で6両が製造された。 既に同交通局では5000形(→50系)が登場していたが、5000形は1基の制御器で8個の電動機を駆動する1C8M方式であり、電動車は2両で1ユニットを構成する関係で最低でも2両編成を組む必要があり、当初の開業区間では輸送力過剰となってしまう。このため再び単行運転ができるよう両運転台車として製造された。 車体は5000形より1m伸びた18mとされ、塗装は高架区間を走ることから目立つ色として小田急電鉄3000形SE車に似たオレンジ・グレー・白の3色を採用した。尾灯は50系とは異なり前照灯の直下に設置され、両方を涙滴形のケースに収めたデザインとされた。 また、当初開業区間が高架区間のみだったため、クレーン車で吊り上げるという、地下鉄車両としては極めて異例の搬入方法が取られた。 6100形(→900形). 1964年(昭和39年)の弁天町~本町間開業に伴いナニワ工機で11両が製造された。基本的な外観・構造は6000形に準ずるが、同時期に製造された5000・5500形増備車と同様に雨どいの設置、ベンチレータの形状変更、車内戸袋部への網棚設置(これに伴い戸袋窓の天地寸法が小さくなった)などが実施された。 当形式は6000形と異なり、竣工時は既に港検車場の車両搬入用クレーンが完成していたため、高架線上への吊り上げは実施されなかった。 大阪市営地下鉄では、1200形以降、近畿地方の鉄道事業者では珍しく両開き扉に戸袋窓を設置していたが、これは当形式が最後となった。 その後の変化. 堺筋線用の60系の登場を控えた1968年(昭和43年)より、6000形は800形に、6100形は900形にそれぞれ改称・改番された(ともに元の車両番号-5200)。時を同じくして特徴的だった塗装も当時の標準色であった上半分アイボリー、下半分タキシーイエローのツートンカラーに改められた。 1969年(昭和44年)の本町 - 谷町四丁目間開業を機に中央線全線の保安装置が、打子式ATSからWS-ATCに変更されることになったため、営業運転で先頭に出る運転台は車上装置設置の関係で助士席側の前面窓が30系と同様に小型化され、窓の寸法は左右非対称になった。 また、車両側にラインカラーを表示することになり、1975年(昭和50年)頃より塗装がアッシュグリーン地にスペクトリウムグリーン(中央線のラインカラー)の帯へと変更された。前面については当初規定により貫通扉に表示していたが、高架線上での視認性向上のため後に腰部全体へも追加された。なお、森之宮検車場配置の50系には一部谷町・中央・千日前線共通運用となっている車両が存在していたため、共通運用解消までラインカラーの表示が遅れていたが、800・900形は製造の経緯から中央線専用となっていた。この間に余剰となった911号が1972年(昭和47年)3月に廃車された(車両自体は部品取り車としてその後数年間留置された後に解体)。 後年さらなる固定編成化が進むにつれて、本形式のような1C4M方式車は扱い難い存在となったため、1978年(昭和53年)から全車を対象に運転台の撤去および電装解除を実施した。同時に車内の照明設備の見直し(蛍光灯グローブの撤去・灯数削減)も実施された。800形は5800形へ、900形は5900形へそれぞれ改称・改番し(車番は原番+5000)、谷町線所属の50系の中間付随車へ転用されて全車谷町線へ転属した。 その後、同線の50系運行終了に伴い、1991年(平成3年)までに全車廃車された。
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ラドミル・エリシュカ
ラドミル・エリシュカ(Radomil Eliška、1931年4月6日 - 2019年9月1日)は、チェコ出身の指揮者である。 略歴. チェコの北東部ズデーテン地方に生まれ、8歳からヴァイオリンを習い始める。ブルノ音楽大学でヤナーチェクの高弟ブルジェティスラフ・バカラに師事する。大学卒業後はチェコの交響楽団や同地の軍楽隊などを指揮しながら研鑽を積む。 1968年にカルロヴィ・ヴァリ交響楽団の首席指揮者を選ぶためのコンクールに参加、優勝し、1969年から首席指揮者兼音楽監督を務めた。この間、チェコ・フィルハーモニー管弦楽団、プラハ交響楽団などにも客演し、プラハの春音楽祭にもたびたび出演している。1989年のビロード革命ののち、チェコ国内のオーケストラでチェコ人のシェフが解任されるという事態の中で、1990年にカルロヴィ・ヴァリ交響楽団のポストを辞した。 1978年からプラハ芸術アカデミーで指揮法の教鞭を執り、1996年から2008年まで指揮科教授を務めた。また、プラハ芸術アカデミーではヤクブ・フルシャに指揮を教えた。2001年から2013年までチェコ・ドヴォルザーク協会会長を務めた。東西冷戦時代に西側で活動できなかったことが一因となり、奇抜さや器用さが評価される現代の風潮とは対照的に、良い意味で素朴で古いタイプの指揮者で、本場の一番正統的な音楽解釈を身に付けていた。活動がチェコ国内中心であったために、日本では最近までその名を知られていなかった。2004年初来日、以後日本において活発な指揮活動を行った(次項のとおり)。 2019年9月1日、死去。享年88。 日本での指揮活動. 2004年に初来日し、東京フィルハーモニー交響楽団(2010年にも客演)と名古屋フィルハーモニー交響楽団を指揮している。2006年に札幌交響楽団、大阪センチュリー交響楽団、2008年に東京都交響楽団、大阪フィルハーモニー交響楽団(同オケには2011年、2013年、2015年、2017年にも客演)、2009年にNHK交響楽団(2012年にも客演)、九州交響楽団(2011年にも客演)、2013年に東京佼成ウインドオーケストラ、2014年に東京音楽大学フェスティバル・オーケストラ、読売日本交響楽団、2016年に京都市交響楽団を指揮する等、積極的に日本のオーケストラと共演し、「遅れてきた巨匠」として熱い注目を集めた。 「2009年 心に残ったN響コンサート コンサート編」では、「わが祖国」全曲のプログラムで第1位に選出された。2012年、NHK交響楽団定期演奏会に再登場、ドヴォルザーク、ヤナーチェクなどを指揮。 2008年4月から札幌交響楽団首席客演指揮者(2015年から名誉指揮者)。同楽団とドヴォルザーク、ヤナーチェク、ブラームス、チャイコフスキーのチクルスに取り組み、数多くの録音を残した。2016年、2017年、同楽団と東京公演を行い成功を収める。 大阪フィルハーモニー交響楽団とも共演を重ね、ドヴォルザークの「スターバト・マーテル」を録音。 健康上の理由から、2017年10月の札幌交響楽団、大阪フィルハーモニー交響楽団への出演を最後の来日公演とすることが発表された。 2017年10月、大阪フィルハーモニー交響楽団とはオール・ドヴォルザーク・プログラム(本公演は文化庁芸術祭優秀賞を受賞)、札幌交響楽団とは2006年初共演で話題を呼んだリムスキー=コルサコフのシェエラードに曲目を変更したプログラムで、惜しまれつつ最後の来日公演を終えた。 ラドミル・エリシュカと札幌交響楽団は、2006年の初共演で相思相愛に陥り奇跡の名演奏を繰り広げ偉大な足跡を記したとして、2017年度第30回ミュージック・ペンクラブ音楽賞特別賞を受賞した。。 2018年4月、プラハのドヴォルザーク記念館で開催された講演会で、自らの日本における指揮活動などについて語った。 生誕90年となる2021年4月に、母国チェコのラジオ・チャンネルD-durが、特集番組「ラドミル・エリシュカ―札幌の指揮者の伝説」を放送した。 生誕90年、札幌交響楽団創立60周年となる2021年10月に彫刻家の遠藤丈太がエリシュカの首像を製作し札幌交響楽団に寄贈した。また12月にはBlu-ray Disc「ザ・フェアウェエルコンサート・イン・札幌」がリリースされた。
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アロナ・タル
アロナ・タル(、(、、生)はイスラエル人女優兼歌手。『ヴェロニカ・マーズ』のチアリーダーのメグ・マニング役、『スーパーナチュラル』の若手ハンターのジョー・ハーベル役および『SEAL Team/シール・チーム』の大学院生ステラ・バクスター役で知られている。 生い立ち. タルはイスラエルのヘルツリーヤで生まれ育った。父親のアミ・タル(Ami)はセファルディム(トルコ系ユダヤ人)の子孫のコンピューター専門家で、元々の姓はミツラヒ( Mizrahi)である。母親のアヤラ(Ayala、旧姓Sabat)はアシュケナジム(ポーランド系ユダヤ人)の子孫の法律家である。両親はともにである。両親はタルが9歳の時に離婚した。2人の姉妹と、父親のその後関係に由来する2人の異母妹がいる。イスラエルののテルマ・イェリン高校に通学し、演劇を先行した。タルはユダヤ人であり、自身を「神秘的な人物」と位置付けている。イスラエル国防軍の軍劇場で勤務した。 キャリア. タルはキャリアを軍務中に、子供向けのミュージックビデオで悪い魔女を演じて開始した。その後、洗濯洗剤の広告に出演し、イスラエル映画 "Lihiyot Kochav"(スターになる)に主演した。 この映画の撮影中に、別々の2本のイスラエルのテレビ番組から出演のオファーを受け、両方に出演した。1本目はホテルを経営する家族の生活を描いた "Tzimerim" と題するソープオペラで、2本目は "HaPijamot" と言う現実の世界で成功しようと苦闘するバンドについてのシットコムだった。最初の3シーズン出演し、その後はゲストスターとして自身の音楽的才能を披露する機会を得た。最初の3シーズンでは主要登場人物として出演したが、第4シーズンでは数エピソードに出演した。 タルはスカイラー・グレイの"Final Warning"のムージックビデオにも出演した。 タルはニューヨークに移り、ここで歌手のワイクリフ・ジョンと知り合って一緒に曲を録音した("" の曲中ではタルがヘブライ語でコーラスを歌っている)。 『ヴェロニカ・マーズ』ではヴェロニカの数少ない友人の一人であるメグ・マニング役を得た。また、『スーパーナチュラル』ではリカーリングキャラクターのジョー・ハーヴェルとして第2、第5および第7シーズンに出演した。『名探偵モンク』では主役エンドリアン・モンクの養子であるモリー・エヴァンズ役で最終シーズンにゲスト出演した。2010年に、ビデオゲーム『』のキャット - S-320の声優を担当した。2013年、ミステリードラマに出演した。『バーン・ノーティス 元スパイの逆襲』の第7および最終シーズンでソーニャ役を演じた。 2020年11月、『真相 - Truth Be Told』の第2シーズンでアイヴィー役に起用された。 私生活. 2005年3月23日にアメリカ人俳優と結婚した。2016年10月23日に、『スーパーナチュラル』の記者会見で第一子の妊娠を発表した。2017年1月29日にベビーシャワーで妊娠を祝福された。この時にはイスラエル人女優仲間のガル・ガドットおよびが出席した。2017年3月に娘を出産した。
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サトゥ・マーレ
サトゥ・マーレまたはサトゥ・マレ(ルーマニア語:Satu Mare、発音; , , )は、ルーマニア、サトゥ・マーレ県の都市。 現在ニューヨーク・エルサレム・ロンドンなどルーマニア国外に居住する、ハシディズム・ユダヤ教徒のサトマール派の発祥地である。 地理. ルーマニア北西部、ソメシュ川河岸にあり、ハンガリー国境から13 km, ウクライナ国境から27 kmしか離れていない。 人口. サトゥ・マーレの人口における民族分布は以下のとおりである。 歴史. 石器時代より人が定住していた。10世紀初頭、ハンガリーの年代記にゾトマール (Zotmar) という名の要塞があったことが記載されている。年代記によると、3日間の戦いの後、要塞はハンガリーが落としたという。1006年、ハンガリー王妃ギーゼラの要請で、ドイツ人が要塞周辺に移住した。のち、さらなるドイツ移民が、ソメシュ川対岸にミンティウという定住地をつくった。 1543年以後、要塞はバートリ家の所有となり、要塞の南側の防御のため、ソメシュ川の流れが変えられ、要塞はソメシュ川にかかる3つの橋によって通りと結ばれる島の上に建つことになった。1562年にはオスマン帝国軍に要塞を包囲され、次にハプスブルク軍に包囲された。トランシルヴァニア軍は、砦を燃やし、放棄した。その後、イタリアの様式を採用して、5つの塔を持つ五角形の要塞が再建された。 1712年から1715年に、サトゥ・マーレと対岸のミンティウは徐々に合併された。1721年、神聖ローマ皇帝カール6世は統合を認め、同時に王立自由都市とされた。 18世紀には都市化が始まり、蒸気による製粉所、レンガ工場、木製品工場、材木工場など、種々の工場が作られていった。また、19世紀には商業道の交差点の立地であるため、鉄道で周辺の自治体と結ばれた。サトゥ・マーレ - カレイ線は1871年に造られた。そして、1872年にサトゥ・マーレ - シゲトゥ・マルマツィエイ線が続き、1894年にはバイア・マーレ、1900年以降にはアルドゥド、ビクサドに接続した。 1918年のルーマニアとトランシルヴァニアの統一により、サトゥ・マーレはオーストリア=ハンガリーの一部からルーマニアへ併合された。1940年に、第二次ウィーン裁定で、サトゥ・マーレを含む北トランシルヴァニア地域はハンガリーの所有になった。1944年10月に、都市はルーマニアに取り戻された。 経済. ハンガリー、ウクライナとの国境に近いため、流通と工業団地の位置に適している。サトゥ・マーレ工業団地は63 haの面積を持つ。サトゥ・マーレで工場を稼働させている会社は、エレクトロラックス、コンチネンタルなどがある。ドイツ、フランスの外資系小売業も市内でスーパーマーケットを展開している。
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ローリン (フレディ・ハバードのアルバム)
『ローリン』 ("Rollin"') は、ジャズ音楽家フレディ・ハバードが、ドイツのシュヴァルツヴァルトので開かれたジャズ・フェスティバルで、テアター・アム・リンク (Theater Am Ring) において収録したライブ・アルバムで、1982年にMPSレコードからリリースされた。このアルバムには、ハバードと、、ウィリアム・チャイルズ、、カール・バーネット (Carl Burnett) による演奏が収録されている。 評価. オールミュージックのレビューで、スコット・ヤナウは、「概ねストレートアヘッドに貫かれたこの音楽は、とても楽しめるもので、ハバードのファンなら、このかなりレアな盤を探し出したいと思うことだろう (the largely straightahead music is quite enjoyable and Hubbard's fans may want to search for this fairly rare item)」と記している。
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ロキタマイシン
ロキタマイシン (INN: rokitamycin) は、16員環マクロライド系抗菌薬の1つである。 構造. ロキタマイシンの化学式はC42H69NO15、分子量は827.995である。16員環のラクトンの部分をアグリコンとする配糖体である。16員環の10位から13位にかけては共役した炭素-炭素二重結合が見られる。 ロキタマイシンは、ロイコマイシンA5の糖鎖の末端側の糖のヒドロキシ基の1つに、プロパン酸を人工的に脱水縮合させた化合物であり、これによって、ヒトに経口投与した際に、消化管からの吸収性が改善された。初めてロキタマイシンが合成されたのは、1979年であった。 作用機序. ロキタマイシンは、特に嫌気性細菌に対して抗菌活性が高い傾向が見られる。他のマクロライド系抗菌薬と同様に、ロキタマイシンも細菌のリボゾームの50Sサブユニットに作用し、タンパク質の合成を阻害する。最小発育阻止濃度を超えた場合に、静菌的に作用する。この濃度を下回ると、仮にロキタマイシンに耐性が無くとも、細菌は再び増殖を開始する。よって、適切な量を適切な間隔で使用して、ロキタマイシンに耐性を有さない細菌の増殖が抑制されている間に、感染を受けた宿主側の白血球や補体などによって、細菌が攻撃されて排除される必要が有る。 用法用量. ロキタマイシンは、標準的には1日当たり600 mgを、3回に分けて経口投与する(1回当たり200 mg)。 関連薬物. キタサマイシン. キタサマイシンは各種の混合物である。具体的には、ロイコマイシンA1、ロイコマイシンA3、ロイコマイシンA4、ロイコマイシンA5、ロイコマイシンA6、ロイコマイシンA7、ロイコマイシンA8、ロイコマイシンA9、ロイコマイシンA13の混合物である。ただ、キタサマイシンの主成分は、ロイコマイシンA5とされる。ジョサマイシンはロイコマイシンA3と同一の物質である。これに対してロキタマイシンは、ロイコマイシンA5の一部を化学修飾した薬物である。ロイコマイシンA5の一部の化学構造を変更して、臨床での使用も行われた抗菌薬としては、他にが知られる。また、構造的に比較的近い抗菌薬として、"Steptomyces mycarofaciens"が産生するが知られる。
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白鹿城の戦い
白鹿城の戦い(しらがじょうのたたかい)とは、永禄6年8月(1563年8月)から永禄6年10月(1563年11月)にかけて毛利軍と尼子軍との間で起こった攻城戦である。戦いの場所が白鹿城(現在の島根県松江市法吉町)で行われたことから、白鹿城の戦いと呼ばれる。 合戦までの経緯. 16世紀の前半から中盤(1500年~1550年)にかけて、中国地方は大内氏と尼子氏の対立を中心に各地で争いが行われてきた。しかし、天文20年8月(1551年9月)、大内氏の重臣・陶隆房(陶晴賢)がクーデターを起し、主君である大内義隆を殺害する事件(大寧寺の変)を契機として中国地方の勢力構図は大きく変わっていく。 この事件を契機として頭角を現してきたのは、安芸国を拠点に活動する戦国大名・毛利氏であった。毛利氏の当主・毛利元就は、天文24年10月1日(1555年10月16日)に陶晴賢を厳島の戦いで破ると、弘治3年4月(1557年5月)には大内氏を滅ぼし、防長2国(周防国と長門国)を新たに支配した(防長経略)。そして、永禄2年(1559年)には備中国へ兵を進め、尼子方の国人・庄氏を屈服させると、同国の有力国人・三村氏らと手を組むことによって備中一国を平定する。永禄5年6月(1562年7月)には、尼子氏の石見国の拠点・山吹城を攻略して石見銀山を掌握し、石見国も支配下におさめた。 一方の尼子氏は、大寧寺の変以降に石見方面へ勢力を伸ばし(忍原崩れ。)、石見銀山の掌握と経済基盤の拡大を図った。しかし、永禄3年12月24日(1561年1月9日)に当主であった尼子晴久が急死し、その跡を嫡男・尼子義久が継ぐと、外交政策の失敗等もあり尼子氏の勢力は弱体化していった。義久が継いで2年と経たない永禄5年(1562年)中頃には、尼子氏の支配する領域は、拠点である出雲国と隠岐国、西伯耆の一部を残すのみとなった。 永禄5年7月3日(1562年8月2日)、毛利元就は尼子氏を滅ぼすため出雲へ進軍する。元就に率いられた毛利軍は出雲へ入国すると、尼子方の有力国人らを次々と服従させつつ陣を進めていき、永禄5年12月(1563年1月)には島根半島の荒隈(洗合)へ本陣を構え、尼子氏の居城・月山富田城攻めを開始する。 元就がまず取った作戦は、月山富田城の補給路を絶つことであった。元就が陣を敷いたこの洗合の地は、月山富田城から北西に向かって約25km離れた島根半島のほぼ中央に位置し、宍道湖に突き出た岬にあって周囲の見通しが良い上、湖水の監視にも長けていた。そのため、尼子氏を攻略するのに長期にわたって陣地を構えるには都合の良い場所であった。 明けて永禄6年8月(1563年8月)、尼子氏攻略を進める元就のもとに1通の訃報がもたらされた。元就の長男であり毛利家の当主であった毛利隆元が、永禄6年8月4日(1563年8月22日)に安芸国の佐々部(現在の広島県安芸高田市高宮町)で急死したのである。 この事実は元就にとって、また毛利軍にとっても大きな痛手であった。特に今年66歳の老境に差しかかり、また隆元の嫡男・毛利輝元が10歳の幼年でしかない元就にとっては大いに落胆すべきものであった。しかしながら元就は、それでも白鹿城を攻略するため大軍を率い進軍する。 白鹿城の戦い. 元就が攻撃目標に定めたこの白鹿城は、元就が本陣を敷いた洗合の地から北へ約4km離れた先に位置し、日本海に面した島根半島と月山富田城を結ぶ要衝であった。尼子氏の居城・月山富田城を守る主要な城・尼子十旗の第1とされ、日本海方面からの補給路を確保する上でも重要な拠点であった。 元就は白鹿城へ進軍すると、まず城を包囲して白鹿城の補給路を断つ作戦に出る。そして永禄6年8月13日(1563年8月31日)、毛利軍は白鹿城へ総攻撃を開始する。この戦いは元就にとって隆元への弔い合戦でもあった。 最初の戦いは、毛利軍の将・出羽中務少輔の抜け駆けによって始まった。中務少輔が兵300を率いて城へ攻め寄せると、城内から尼子軍の将・久村久左衛門、山尾刑部、村井兵庫介らが兵1,000を率いて迎撃に向かい城下で合戦となる。 この戦いは尼子軍が優勢であった。毛利軍は多数の兵を討たれ約1町(約100m)ばかり敗退し、さらに救援に駆けつけた熊谷隆直らの部隊も撃ち破られ、中務少輔、隆直の9人の子供を含む多数の将兵を討ち取られた。 劣勢に立たされた毛利軍は、さらなる援軍として吉川元春に兵を率いさせ救援に向かわせる。それに対し尼子軍は、城主・松田誠保、牛尾久信(牛尾久清)が共に兵を率いて出撃し、すでに城下で戦っている尼子軍に合流することで対抗した。 この救援軍の参戦により戦いの優越は互角となったが、さらに毛利軍が杉原盛重に兵500を与え救援に向かわせたため、兵の数で劣勢になった尼子軍は情勢不利と判断して城内(本丸)へ退却した。 これにより戦いの趨勢は決し、毛利軍は同日で小白鹿などの白鹿城の外郭(出丸)全てを攻略する。白鹿城は本丸を残すのみとなり落城するのも時間の問題と思われたが、その後は毛利軍も決定的な攻め手に欠けたため戦いは膠着状態となった。 同年9月上旬、元就は白鹿城にある程度の兵を残すと、同じく尼子十旗の1つである熊野城を攻略するため進軍する。この熊野城は、月山富田城から西へ約8km、白鹿城から南へ約12km離れたところに位置し、月山富田城と白鹿城の間で連絡を取りつつ、宍道(島根県松江市宍道町)方面の毛利軍の補給路を脅かすには絶好の位置にある要害であった。 同月10日(9月27日)、元就は熊野城の麓に着陣すると城へ総攻撃を開始する。この戦いは、城を守る熊野兵庫助(熊野久忠)、大西十兵衛(大西高由)らの奮戦によって毛利軍は敗北し、元就率いる毛利軍は白鹿城へと撤退した(熊野城の戦い)。 一方、白鹿城では毛利軍の主力が熊野城へ移動したことに伴い、毛利軍による城への包囲力は弱まっていた。これを好機と見た城内の尼子軍は、毛利軍が熊野城へ総攻撃をかけたちょうど同じ日(永禄6年9月10日)、城を包囲する毛利軍に対して攻撃を仕掛ける。 この戦いは、尼子軍が毛利軍に対して弓矢、鉄砲、礫石等を浴びせかけ多大の損害を与えるも、毛利軍がその頑強な攻撃に耐えたため、尼子軍は毛利軍の包囲を撃ち破ることはできなかった。 その後、熊野城の戦いで敗れた毛利軍が白鹿城の麓に帰陣したため、白鹿城を巡る戦いは再び膠着状態になるか、と思われた。しかしながらそれより先、8月13日の白鹿城の最初の戦いがあった後に、毛利軍は石見銀山の銀掘り衆を数百人呼び寄せ、城の麓の「らんとうの尾」より城中へ坑道を掘り進めていた。一方、城に籠もる尼子軍もこれを察知し、同じく城の「多賀丸」より坑道を掘り進め毛利軍の侵入を阻止しようとしていた。 同月11日(9月28日) 、両軍が掘り進める坑道内において、次第にお互いの坑道の物音が聞こえるようになり、そして終に互いの坑道が通じて毛利軍と尼子軍は鉢合わせとなった。これにより、ここに珍しい坑道内での合戦が開始された 。この戦いは、両軍共に激しく戦うも決着がつかず、結局、両軍は坑道内から兵を引き上げ撤収する 。その後、尼子軍が坑道内に大小の石を投げ込み坑道を閉鎖したため、再び戦いは膠着状態となった 。 こうした尼子軍と毛利軍の攻防が繰り返されるなか、尼子氏の当主・尼子義久は、毛利軍の攻撃に晒され、また兵糧の欠乏に苦しむ白鹿城を救出するため、尼子倫久らに大軍を預け救援に向かわせる。 同月21日(10月8日)、倫久率いる尼子救援軍は、月山富田城を出陣し白鹿城の麓まで軍を進めると、尼子軍来襲に備えここに陣を敷く毛利軍と対陣する。同月23日(10月10日) 、尼子軍は毛利軍と戦い敗れる(白鹿城の麓合戦) 。敗れた尼子軍は月山富田城へと撤退し、白鹿城の救援は失敗に終わった。 これにより白鹿城の趨勢はほぼ決定することとなり、同年10月13日(10月29日)には毛利軍による白鹿城への攻撃が再び開始された。この戦いは、尼子軍の奮戦によって落城とまでは至らなかったものの、毛利軍によって城の小高丸まで攻め込まれ、落城するのも時間の問題となった。 同月中旬ごろ(11月上旬ごろ)、毛利軍による約3ヶ月にわたる包囲を受け城内の兵糧・水が欠乏し、また軍の救援も絶望的となったことから、ついに白鹿城に籠もる尼子軍は城を明け渡して毛利軍に降伏する。 降伏後、城主・松田誠保は隠岐へ逃亡し、同じく城に籠もっていた牛尾久清は許され月山富田城へと移送された 。城の二の城戸を守備していた普門西堂は松田一族らと共に城内で自決し 、その外の将兵らは許され追放された 。 合戦後の影響. 尼子十旗の第1とされる白鹿城が陥落したことは、尼子軍にとって大きな痛手となった。これにより尼子軍は日本海から島根半島を結ぶ補給路を絶たれることになる。 その後、尼子軍は中海方面の補給路を確保しようと伯耆国内で毛利軍と激しい戦いを繰り広げていった(弓浜合戦)。しかしながら伯耆方面でも毛利軍が優位に戦いを進め、永禄8年初頭頃(1565年2月頃)には伯耆一円が毛利軍によって支配された。 こうして毛利軍によって周りを囲まれ兵糧補給の道を絶たれたため、尼子氏の居城・月山富田城は完全に孤立するに至った。そして永禄8年4月(1565年5月)には、ついに毛利軍による月山富田城攻めが開始された(第二次月山富田城の戦い)。 参戦武将. 尼子軍. 【※1】陰徳太平記のみ記載 【※2】雲陽軍実記のみ記載
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七衆
七衆(しちしゅ)とは、仏教を信奉する出家者も在家者も含む信徒全般の総称。 構成. 以下の7種から成る。
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和歌山ジャンクション
和歌山ジャンクション(わかやまジャンクション)は、和歌山県和歌山市にある阪和自動車道(近畿自動車道紀勢線)と京奈和自動車道(一般国道24号紀北西道路)を結ぶジャンクションである。 概要. 山の斜面という地形の制約上、大阪方面と白浜方面の出入路が約 3 km 離れて接続しており、白浜方面から京奈和道方面相互間のランプはしばらく阪和自動車道と並走する構造になっている。 並行区間内に紀ノ川SAが存在するが、阪和自動車道のみに接続しており、京奈和自動車道を通行する場合には紀ノ川SAを利用することができない。このため、京奈和自動車道を通行する場合、阪和自動車道大阪方面は岸和田SA(25 km先)が、阪和自動車道白浜方面は吉備湯浅PA(30 km先)が、京奈和自動車道方面はかつらぎ西PA(19 km先)が最短で利用できる休憩施設となる。 京奈和自動車道方面は2017年3月18日開通。開通の際に近畿圏で初めて高速道路ナンバリング標識が設置された。和歌山JCTを境に阪和道大阪方面が「E26」、阪和道白浜方面が「E42」、京奈和道橋本方面が「E24」である 。
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カラクサケカビ
カラクサケカビ("Circinella")は、接合菌門接合菌綱ケカビ目に属するカビである。胞子嚢の柄がゼンマイのように巻き込むのが特徴である。 特徴. カラクサケカビはケカビ目の代表的なカビのひとつである。大型の胞子嚢だけをつける。その点でケカビに似るが、大きな違いは胞子嚢柄が巻蔓状に巻いて、平面上の渦巻きの内側に向いて胞子のうがつくことである。巻き方は種や株によっても異なるが、極端なものでは完全に二巻くらい巻き込む。主軸の側枝にこのような柄をつけるものや、仮軸状に伸びる枝の先がそれぞれに巻き込むものなどがある。 普通の培地でよく生育するが、ケカビなど程に成長が早くなく、また、あまり大きなコロニーにはならないことが多い。胞子嚢はほぼ球形。胞子嚢壁は褐色から黒褐色で比較的丈夫で、ケカビの多くのようにとろけることはなく、大きく裂けることで胞子を放出する。胞子のうの内部には大きな柱軸がある。柱軸は単なる球形やドーム型ではなく、ヒョウタン型など、ちょっとした凹凸があることが多い。 土壌からも出現するが、草食動物の糞から出現することが多い。一部には、糠味噌等から発見された例もある。 分類. この属はvan Tieghem と Le Monnier によって1983年にたてられたものである。現在認められている種は10種近くがあるが、最も普通なのは "C. umbellata" と "C. muscae" の二種である。代表的なものには以下のような種類がある。 なお、"C. linderi"という種は先端の胞子嚢だけがアポフィシスを持つ珍しい種としてこの属で記載されたが、側生する胞子嚢が実は小胞子嚢であるとの解釈によってフェンネロミケス "Fennelomyces"という新属が立てられた。日本語の名は先端が巻いた胞子嚢柄の様子が唐草模様を思わせるためで、特に仮軸状に分枝したものはその感が強い。 大きい胞子のうのみを形成するのでケカビ科に所属させることが多かった。 巻蔓状の枝. 胞子嚢柄が巻蔓状になることは、カラクサケカビの特徴であるが、同様に巻蔓状になる構造は、ケカビ目の菌類にはあちこちに見られる。先に述べた"Fennelomyces"やハリエダケカビ、サムノスチルムの小胞子嚢柄がそれであるほか、より巻きがゆるいものとしてはバクセラの大胞子嚢柄や分生子柄、コウガイケカビの大胞子嚢柄などがある。また、必ずそのような形にならないものの中でも、ハリサシカビモドキやユミケカビなどの胞子嚢柄などが巻いている株が時々現れる。どうもケカビ目にはこの巻き方が出やすいようである。ケカビ目以外では、ハリサシカビ属の"S. cornu"なども同じように巻いている。キクセラ目などにも菌糸が巻くものがあるが、それらはたいていはバネのような巻き方である。
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南善晴
南 善晴(みなみ よしはる、1989年5月17日 - )は、日本のラグビーユニオン選手。 来歴. 2008年、大分舞鶴高校卒業後、慶應義塾大学に入る。なお大分舞鶴高校時代、第31回高校東西対抗試合に西軍として出場した。 2012年、慶應義塾大学卒業後、豊田自動織機シャトルズに加入。 2015年、豊田自動織機シャトルズを退団した。
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冷言
冷言(れいげん、1979年 - )は台湾の推理作家。台湾推理作家協会理事長。 来歴. 綾辻行人の『十角館の殺人』に衝撃を受けて創作を開始しており、論理的な謎解きを主眼とする本格ミステリの普及に努めている。 主要作品. 単行本. 長編 短編集
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デジタルツイン
デジタルツイン(英: Digital twin)とは、さまざまな目的で使用できる物理的資産、プロセス、人、場所、システムおよびデバイスのデジタル複製を指す。 定義. 研究で用いられているデジタルツインの定義は、2つの重要な特徴が挙げられる。 概念. デジタルツインの概念は、クロスリアリティ環境やコスペース、ミラーモデルなどの他の概念と比較することができる。 デジタルツインは、モノのインターネット (IoT)、人工知能、機械学習、ソフトウェア分析を空間ネットワークグラフと統合して、物理的な対応物の変化に応じて更新および変化する生きたデジタルシミュレーションモデルを作成する。デジタルツインは、複数のソースから継続的に学習および更新して、ほぼリアルタイムのステータス、作業状態、または位置を表現する。この学習システムは、動作状態のさまざまな側面を伝えるセンサーデータや、深く関連する業界領域の知識を持つエンジニアなどの人間の専門家から学習する。また、デジタルツインは、過去のマシンの使用状況からの履歴データを統合して、デジタルモデルに組み込む。 さまざまな産業部門で、デジタルツインは物理的資産、システム、製造プロセスの運用と保守を最適化するために使用されている。これらは、物理的なオブジェクトが他のマシンや人々と仮想的に共存および相互作用できる産業用モノのインターネット(IIoT)の形成技術である 。IoTのコンテキストでは、これらは「サイバーオブジェクト」または「デジタルアバター」とも呼ばれる。デジタルツインは、サイバーフィジカルシステムのコンポーネントでもある。 2021年のシステマティックレビューでは、デジタルツインと人工知能の組み合わせは依然として困難であったと報告されている。
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わらびもち
わらびもち(わらび餅、蕨餅)は、わらび粉を原料とする柔らかく口どけの良い和菓子。 きな粉や抹茶の粉、黒蜜をかけて食べるのが一般的となっている。 製法. 製法の一例は下記の通りである: これにきな粉をふり、さらに黒蜜をかけて食べるとより美味となる。抹茶をわらび粉に混ぜて作ったものや、きな粉の代わりに抹茶をふった種類もある。 わらび粉はワラビの地下茎から得られるデンプンだが、高価なので芋、タピオカ、葛などのデンプンを混ぜたものを用いる場合も多い。 なお、上述の作り方だと、時間をおいたり、冷蔵庫で冷やすなどすると、デンプンの老化により再び固くなってしまうが、トレハロースを混ぜておく事でこれを防ぐことができる。 歴史と産地. 醍醐天皇が好物としており太夫の位を授けたという言い伝えがあり、そこからわらび餅の異名を岡大夫とも言う。そのいわれが寛永19年(1642年)に書写された大蔵虎明能狂言集(大蔵虎明本)の「岡太夫」に古い言い伝えとして書かれている。 また同時に凶作に見舞われた農家の非常食でもあったという言い伝えもある。 東海道の日坂宿(現在の静岡県掛川市日坂)の名物としても知られており、谷宗牧の東国紀行(天文13-14年、1544年-1545年)には、「年たけて又くふへしと思ひきや蕨もちゐも命成けり」と、かつて食べたことのあるわらび餅を年をとってから再度食べたことについての歌が詠まれている。ただし掛川周辺は鎌倉時代から歌に歌われるほどの葛布の名産地であり、林道春(林羅山)の「丙辰紀行」(元和2年、1616年)にはこの日坂のわらび餅について、「或は葛の粉をまぜて蒸餅とし。豆の粉に塩を加えて旅人にすすむ。人その蕨餅なりとしりて。其葛餅といふことをしらず。」とあり、天明6年(1786年)頃の「東街便覧図略」にも、「蕨餅とハ言へと実は掛川の葛の粉を以って作れる也」ともある。 奈良県はわらび粉の名産地であり、奈良や近くの京都ではわらび餅の名店が数多く見られる。京都では餡入りの蕨餅が古くから親しまれてきた。また夏のイメージが強いが和菓子店で売られている本蕨を使った餡入りタイプのわらび餅は保存に向かないため、夏の間は販売されていないことが多い。 移動販売. 一部地域において夏季限定や不定期にわらび餅の移動販売を行う業者がおり、夏の風物詩となっている。 静岡県浜松市ではリアカーを引いてわらび餅を売り歩く移動販売屋がいる。早朝にわらび餅の仕込みを行い、昼前から店や常連客の家を巡りながら売り歩く。販売時期は5月から9月上旬までである。同業者は時代の流行により近年では減少傾向にある。 愛知県名古屋市では『わらび~もち、わらび~もち、冷たくて~おいしいよ~』、大阪府では『わらび~もち、かきごおり~』などの歌をスピーカーで鳴らしながら、わらび餅の移動販売を行う車がある。 東京都墨田区にあるきびだんご専門店の『吉備子屋』は、谷根千地域において2週に1度ほどの間隔で移動販売を行う。天候に左右されるため定期的ではないが、リアカーを引き売り歩く様式で、串わらび餅ときびだんごを客寄せの太鼓を叩きながら販売している。
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東部連合
東部連合(とうぶれんごう、英:Eastern Association)とは、1642年12月に清教徒革命(イングランド内戦)の最中にイングランドで東部で結成された、複数の州の連合である。初め5つの州だったが、後に2州加わり7州となった。 1642年8月の勃発直後は議会派の軍は雑多なアマチュアで、地方のジェントリ・貴族が自前で招集する民兵隊が主だった。この方法で編成された議会軍は指揮系統がバラバラな上、隊長が個人の利害を優先するあまり出身地から出たがらない傾向があった。こうしたローカリズムを克服しようと結成されたのが東部連合で、ノーフォーク・サフォーク・エセックス・ケンブリッジシャー・ハートフォードシャーの5州が議会の法令で同年12月に結成、ケンブリッジに本部を置いた。翌1643年5月に・リンカンシャーも加盟して7州に達した。 エッジヒルの戦いに参加していたオリバー・クロムウェルはグロビーのグレイ卿指揮下の東部連合軍に入り、自身が編成した精鋭の鉄騎隊を率いてしばしば王党派の侵攻を防ぎ、徴兵・訓練で鉄騎隊を増強しながら東部連合の防備固めに尽力した。8月に歩兵10,000人と騎兵5,000人を合わせた15,000人からなる東部連合軍が議会により編成され、マンチェスター伯エドワード・モンタギューがグレイ卿に代わり司令官に就任、クロムウェルは1644年1月にそれまでの戦功を認められ副司令官になり、マンチェスター伯に委任され事実上東部連合軍の中心人物として、マーストン・ムーアの戦いで活躍していった。 しかし、課題であった地方重視による命令拒否は東部連合軍にもおよび、次第にマンチェスター伯は軍事行動の遅延や躊躇を繰り返して議会の命令を聞かなくなった。これに怒ったクロムウェルは議会で優柔不断な上司への非難と軍事改革を提唱、議会が応じたことで1645年の東部連合軍を始めとする各地の軍隊を1つにまとめたニューモデル軍編成と辞退条例制定に繋がるのである。
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ヨハネス8世 (ローマ教皇)
ヨハネス8世(Ioannes VIII, 820年? - 882年12月16日)は、ローマ教皇(在位:872年 - 882年)。教会慣用名はヨハネ。 人物略歴. 西暦820年ころ、ローマに生まれる。長年助祭長を務め、ニコラウス1世とハドリアヌス2世から信頼を置かれた。教皇登位はハドリアヌス2世死後の872年12月14日で、この時52歳であった。 ローマ市民だけの協力によってサラセン人(イスラム教徒)の攻撃からローマを守った。9世紀における最も有能な教皇のうちの1人と考えられており、この後レオ9世が登場するまでの約200年において教皇権が最後の輝きをみせた時期のローマ教皇であった。 ヨハネス8世はサラセン人のイタリア侵入対策としてローマ皇帝ルートヴィヒ2世に援助を要請、死後は王権に対する教皇権の優位を保持しようとして、875年に西フランク王シャルル2世に対して皇帝戴冠をおこなった。877年にシャルル2世が亡くなると甥の東フランク王カールマンに援助を求めたが実現せず、881年にはカールマンの弟の東フランク王カール3世を皇帝に戴冠した。しかし、その目的は充分には達せられなかった。 東方教会(正教会)との関係にも苦慮、869年から870年まで開催された第4コンスタンティノポリス公会議ではコンスタンティノープル総主教フォティオス1世の追放が決められ、前教皇ハドリアヌス2世も同意していたが、ヨハネス8世は879年から880年に再び開催されたコンスタンティノポリス公会議でフォティオス1世の復帰を認め、正教会との関係は良好になったが東への影響が弱まった。一方、メトディオスのスラヴ人伝道を支援したが、ローマでは立場が不安定で、反対派貴族を破門したこともあった(その中には後の教皇フォルモススも含まれていた)。 そうした情勢の最中にローマ貴族の抗争に巻き込まれ、882年12月16日に暗殺された。年代記によるとヨハネス8世は毒を盛られた上で撲殺されたと言われ、犯人は教会内の何者かと言われているが不明。次の教皇はマリヌス1世が選出、暗殺容疑をかけられたフォルモススは無罪放免にされた。
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北川内駅
北川内駅(きたかわちえき)は、かつて福岡県八女郡上陽町大字北川内(現・八女市上陽町北川内)に置かれていた、日本国有鉄道(国鉄)矢部線の駅(廃駅)である。 矢部線の開通とともに開業した駅で、上陽町の中心地区の西端部にあり、同町唯一の駅であった。矢部線の廃止に伴い、1985年(昭和60年)4月1日に廃駅となった。 駅構造. 廃止時は、1面1線の単式ホームを有していた。駅舎はなく、ホーム上に待合所があった。 現状. 駅跡地には、現在、上陽町地域福祉センターが設置されている。また、当駅跡の東側近くに旧北川内隧道の入口が残されている。
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森荘已池
森 荘已池(もり そういち、1907年〈明治40年〉5月3日 - 1999年〈平成11年〉3月13日)は、日本の作家。 岩手県盛岡市出身。本名:森 佐一(もり さいち)。旧制盛岡中学(現岩手県立盛岡第一高等学校)、東京外国語学校(現東京外国語大学)ロシア語科中退。岩手日報記者をへて、文筆業へ。岩手県在住で最初の直木賞作家。宮沢賢治と深い親交があり、賢治作品や賢治に関する文章を多く残している。 妹の夫である大村次信(写真家大村次郷、考古学者大村幸弘の父)は、盛岡藩で火業師(砲術師)をつとめ、エトロフ島事件に遭遇しロシア人の捕虜となった大村治五平の子孫にあたる。その縁から、大村家で門外不出の書として伝えられていた治五平の手記『私残記』を託され、1943年6月に現代語訳と解説をつけて大和書店より翻刻出版した。この初版は、当時の出版事情から発行部数は2000部にとどまり、重版もされなかったが、1977年に中公文庫で再刊された。
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短論
短論(たんろん、1967年7月21日 - )は、日本の俳優。 東京都板橋区出身。しまだプロダクション所属。
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有栖川宮韶仁親王
有栖川宮韶仁親王(ありすがわのみやつなひとしんのう)は、江戸時代の皇族。有栖川宮第7代当主。 生涯. 父は織仁親王。母は家女房。幼名は若宮。妹に楽宮喬子女王と登美宮吉子女王がいる。徳川慶喜の母方の伯父にあたる。 文化4年(1807年)12月に光格天皇の猶子となり、翌文化5年(1808年)3月に親王宣下。同年5月元服し、三品に叙され、上総太守となる。文化9年(1812年)2月、父・織仁親王の落飾により有栖川宮を相続し、中務卿となった。文政5年(1822年)3月、二品。弘化2年薨去。死に際して一品に叙された。
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ルートヴィヒ・アウグスト・フォン・ザクセン=コーブルク・ウント・ゴータ
ルートヴィヒ・アウグスト・マリア・オイデス・フォン・ザクセン=コーブルク・ウント・ゴータ(, 1845年8月9日 - 1907年9月14日)は、ザクセン=コーブルク=ゴータ家のカトリック系の分家コハーリ侯爵家の公子で、ブラジル帝国の海軍提督。ブルガリア王フェルディナントの次兄にあたる。 生涯. ザクセン=コーブルク=ゴータ公子アウグストと、その妻でフランス王ルイ・フィリップの娘であるクレマンティーヌ・ドルレアンの次男として生まれた。父はハンガリーでも指折りの大領主であるコハーリ侯爵家の相続人であった。1864年12月15日、アウグストはリオ・デ・ジャネイロでブラジル皇帝ペドロ2世の次女レオポルディナと結婚した。アウグストは従兄のウー伯ガストンと一緒にブラジル皇帝の二人の娘たちの婿となるべく南米に送り込まれ、当初はアウグストの方が帝位継承者イザベル皇女の夫となる予定であった。ところがイザベルと妹レオポルディナは父親の同意を得て、それぞれの花婿を交換したのだった。 すでにヨーロッパで海軍軍人となるよう育てられていたアウグストは、結婚と同時にブラジル軍の海軍提督の地位を与えられた。1865年、アウグストはブラジルとパラグアイの戦争に参加し、戦功を立てた。普墺戦争の時期、アウグストは家族と一緒にハンガリーの実家に滞在しており、戦争の推移を見守っていた。1871年に妻のレオポルディナが亡くなった後も、アウグストはブラジル海軍提督の地位とブラジルの歴史学協会及び地理学協会の名誉総裁の地位を保ったが、ヨーロッパで暮らすようになった。ヨーロッパに帰った後のアウグストは狩猟に情熱を注ぎ、特にシャモア狩りに熱中して世界最高記録の3412匹を仕留めている。 1873年のウィーン万国博覧会では、アウグストはブラジル館の責任者を務めた。1879年には兄フィリップとともに世界一周旅行に出かけ、インドやハワイを訪れた。1889年にブラジルの帝政が崩壊すると、アウグストはオーストリア=ハンガリー二重帝国軍に仕官することになった。 アウグストの上の息子2人は、一時はブラジルの帝位継承者と目されていた。アウグストはまた最も有名なドイツ系ブラジル人の一人にも数えられる。アウグストの遺体はコーブルクの聖アウグスティン教会()にあるコハーリ侯爵家の地下納骨堂の、妻の棺の隣に埋葬されている。 子女. 妻レオポルディナとの間に4人の息子をもうけた。
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未来ナース
未来ナース(みらいナース)は1998年4月から2001年3月までTBSで放送された、浅草キッド進行による番組。 概要. 料理研究家の鈴木その子がブレイクするきっかけにもなった。なお、『未来ナース2』『未来ナースファイナル』として幾度か改題されていた。 借金問題の渦中の岸部四郎や、離婚問題の渦中のゴージャス松野を出演させるなど、「破綻タレント再生番組」の趣きもあった。また、ガッツ石松の映画を酷評する水野晴郎を呼び、ガッツと番組内で対決させる企画もあった。当時、海砂利水魚(現くりぃむしちゅー)が出演。ニューシネマパラダイスと用い、素人カップルが街角で激しいディープキスを見せ合う企画があり、当時の放送コードの緩さを物語っている面も垣間見られた。 1999年1月に放送された同局のドラマ『ケイゾク』第一話の冒頭シーンにて、鈴木その子が出演しているシーンを視聴しているカットがある。
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拍子
拍子(ひょうし)は、一般には、拍や拍の連なりのこと。西洋音楽では強拍に連なるいくつかの拍の集まりの繰り返しを言う。日本では「三三七拍子」という言葉でわかるように、この言葉は、西洋音楽の定義の「拍子」とは異なる使われ方をする。アラブ古典音楽のイーカーア(イーカー)やインド古典音楽のターラ(サンスクリット読み)を「何々拍子」と表現することがあるが、これも西洋音楽の定義の「拍子」とは異なる。 以下、本項においては、西洋音楽のそれについて述べる。 西洋音楽における拍子. 西洋音楽において拍子とは、拍の連なり(拍節)において、拍に重軽が生じたとき、ひとつの重である拍(「強拍」という)とそれに後続する1つないしいくつかの軽である拍(「弱拍」という)の集まりが(原則として)周期的に繰り返され、強拍から次の強拍まででひとつのまとまりを感ずることをいう。 ひとつの強拍に連なる拍の数によって、2拍子、3拍子、4拍子などと呼ぶ。また、ひとつの拍を示す音価を添えて、4分の2拍子、2分の3拍子と呼ぶ。楽譜には、五線の下半分に音価、上半分に拍数を書く。これを拍子記号という。なお楽譜上では、ひとつの拍を示す音価が付点音符の場合、便宜上本来の拍子と異なる数字を書き記すことがある。なお、2分の2拍子を、4分の4拍子をと書くことがある。これは中世フランスの音楽家、が音楽理論書『Ars Nova』(1325年頃)で用いた記譜法に由来する。『Ars Nova』では、音価の分割について3分割を完全分割、2分割を不完全分割とし、完全分割による3拍子は完全を意味する正円「○」で表し、不完全分割による2拍子や4拍子は正円の一部が欠けた「C」によって表していた。中には「Common time (ありふれた拍子) の頭文字Cを図案化したもの」と解説する書もあるが、これは誤りである。 楽譜に書くとき、ひとつの強拍に連なる拍のまとまりを、小節と呼ぶ。 西洋音楽における拍子の歴史. ルネサンス音楽(15世紀から16世紀頃)以前は、曲全体に統一された拍子を与えることは一般的でなかった。一つの曲の中で拍の強弱の周期は様々に変化し、多声音楽では強拍の位置が声部ごとに異なるのが普通であった。しかし、舞曲ではステップを踏むために必要であったため、拍子がつけられていた。バロック音楽(17世紀から18世紀半ば頃)以後は舞曲のスタイルが踏襲されたため、西洋音楽は拍子をもつようになった。 単純拍子. 西洋音楽においては、すべての拍子を2拍子ないし3拍子の組み合わせに適用する傾向があり、これを単純拍子と呼ぶ。また、2拍子の複合拍子である4拍子を単純拍子に加えることもある。 2拍子. ひとつの強拍とひとつの弱拍から成る拍子で、人間の歩行から発生したと考えられている。1拍を4分音符とする2拍子を4分の2拍子、1拍を2分音符とする2拍子を2分の2拍子(alla breve 〈アッラ・ブレーヴェ〉)という。 3拍子. ひとつの強拍と2つの弱拍から成る拍子で、馬の歩行から発生したと言われることが多い。メヌエットやワルツは3拍子であり、このような踊りのリズムに多く見られる。1拍を8分音符とする3拍子を8分の3拍子、1拍を4分音符とする3拍子を4分の3拍子、1拍を2分音符とする3拍子を2分の3拍子という。 4拍子. 一般には2拍子を2つ連ねたものと考えられていて、強-弱-中強-弱の4つの拍から成る。ただし、強-弱-弱-弱と考えられるものもある。1拍を4分音符とする4拍子を4分の4拍子という。 複合拍子. 西洋音楽の楽譜における音符は2等分系で作られているため、拍を3等分するリズムは3連符を使って記すことになり、表現が煩雑になりがちであるため、拍を3等分するリズムによる曲では1拍の音価を3等分しやすい音符で表すことが考案され、付点音符を付与されるようになった。 付点4分の2拍子や付点2分の3拍子などと呼ばれるものがそれであり、付点音符は付点が付く以前の音符の1.5倍の長さ、すなわち付点が付く以前の音符の半分の長さの3倍の長さを持つために、3等分の概念を表現しやすい。しかしこれは数字だけで示すことができないため、楽譜上では3等分した音価とその音価の小節内の数を、五線の下と上に表現する。すなわち、付点4分の2拍子は付点4分音符を3等分した8分音符を基準として「8分の6」拍子と書かれ、付点2分の3拍子は同様に「4分の9」拍子と書かれる。複合拍子には6、9、12拍子が分類されるが、時に純粋な6拍子、9拍子、12拍子も存在する。それらはひとつの強拍と残りの5、8、11個の弱拍から成る拍子である。また、各拍が6等分される拍子として、拍子記号の表記上18拍子、24拍子と表記される3拍子、4拍子もある。 6拍子. 基本的には各拍が3等分される2拍子、つまり3拍子+3拍子(強-弱-弱-中強-弱-弱)となるのが普通である。この場合、8分の6拍子は1拍を付点4分音符、4分の6拍子は1拍を付点2分音符とした2拍子となる。しかし、各拍が2等分される3拍子つまり2拍子+2拍子+2拍子(強-弱-中強-弱-中強-弱)も存在する。この場合、4分の6拍子は1拍を2分音符とした3拍子となる。すなわちこれは前述の通り2分の3拍子に等しい。 9拍子. 各拍が3等分される3拍子。8分の9拍子は1拍を付点4分音符とした3拍子となる。 12拍子. 各拍が3等分される4拍子。8分の12拍子は1拍を付点4分音符とした4拍子となる。パストラールにしばしば見られる(ヘンデル『メサイア』のPifa、ハイドン『四季』第1曲、ベートーヴェン交響曲第6番の第2楽章など)。ジーグでもしばしばこの拍子が使われる。 18拍子. 各拍が6等分される3拍子。16分の18拍子がバッハ『ゴルトベルク変奏曲』第26変奏に見られる(左手は4分の3拍子)。 24拍子. 各拍が6等分される4拍子。16分の24拍子がバッハ『平均律クラヴィーア曲集』第1巻第15曲の前奏曲に見られる(左手は4分の4拍子)。 変拍子. 以上の拍子を足し算して組み合わせた拍子を変拍子、特殊拍子、または混合拍子と呼ぶ。ただし、「変拍子」は、いわゆる、拍子の頻繁な変化を指していうこともある。 5拍子. 純5拍子(強-弱-弱-弱-弱)、3拍子+2拍子(強-弱-弱-中強-弱)、2拍子+3拍子(強-弱-中強-弱-弱)の3態に大分される。元来の西洋音楽にはない拍子で、スラブ音楽などの他文化から引用された拍子である。3拍子+2拍子・2拍子+3拍子の場合は、大枠としては「各拍の長さの異なる2拍子」ということができる。 7拍子. 純粋な7拍子(強-弱-弱-弱-弱-弱-弱)、2+2+3拍子または4+3拍子(強-弱-中強-弱-中強-弱-弱)、3+2+2拍子または3+4拍子(強-弱-弱-中強-弱-中強-弱)、2+3+2拍子(強-弱-中強-弱-弱-中強-弱)の4態に大分される。。 8拍子. 現在は2+3+3拍子(強-弱-中強-弱-弱-中強-弱-弱)、3+2+3拍子(強-弱-弱-中強-弱-中強-弱-弱)、3+3+2拍子(強-弱-弱-中強-弱-弱-中強-弱)の3態に大分されている。。 9拍子. 前項の複合拍子にある9拍子は「各拍が3等分される3拍子」(3+3+3)であるが、変拍子の9拍子も存在する。 ポリリズム(各声部異拍子). 同時に合奏ないし合唱される各声部の拍が異なること、またはそのように構成されたリズムのことをポリリズム と呼ぶ。各地の民族音楽、現代音楽、一部の指向的なポップスなどに見られる。日本では、tipographicaやDCPRGなどがポリリズムの追求を実践した。 その他の拍子. 1拍子. レスピーギの『ローマの祭り』の「La Befana」(2分の1拍子)や、ボロディンの『交響曲第2番』第2楽章の「Prestissimo」部(1分の1拍子)等がある。また、ベートーヴェンのスケルツォは3拍子だが、1拍が3等分された1拍子であるといわれることがある。また、他の拍子の間に挿入して特殊な効果を与えるために使われるものを言うこともある。 『1拍子』を拍子の分類に定義すべきかについては、諸説の分かれるところである。 可変拍子. ひとつの楽曲の中で拍子が変わることもある。これを可変拍子と呼ぶ。特に曲が大きく変容するとき、拍子が変わることはしばしばである。また、近代の楽曲、例えばストラヴィンスキーのバレエ音楽『春の祭典』では拍子が数小節で変わることがあり、周期性が感じられず、楽譜の便宜だけのために拍子記号が用いられるというようなものも見られる。そのようなときには、上に挙げた拍子以外の拍子が見られることもしばしばである。また童謡「あんたがたどこさ」や民謡「炭坑節」などのように、メロディー重視の楽曲に対して楽理的に拍子を数えた時に、意図せずして可変拍子になる場合がある。 強拍と弱拍. 最初の音よりタイと強拍か弱拍に休符によって区切られた場合に超強となる。強拍における重心が確保されると小節が成立し、2つ並んで動機となる。効果はリズムと対位が共に終止の構造をとるまで有効である。ビートと異なり、音量による補強を拍子学に組み込まずに説明される。あくまで音量は波に働く総合力と解釈し、音質とかかわりがあるという立場から来る。 ビートの分類. 「強拍」「弱拍」という言葉につられるせいか、「強拍は音の強い拍」「弱拍は音の弱い拍」という説明を(専門書でさえも)見かけるが、これは誤解を招きやすい表現である。実際の音楽ではむしろ、弱拍に強拍よりも強い音が置かれることが多いからである。その顕著なものはジャズのフォービート、ロックやポップスのエイトビート、シックスティーンビートであって、4拍子の2拍目と4拍目に強勢が来るが、それらは決して「強拍」ではない(バックビート参照)。 英語のdown beat、ドイツ語のAbtakt(いずれも強拍のことだが、下向きの拍の意味である)やup beat、Auftakt(上向きの拍のことで弱拍のこと)のほうがこれらの概念に近い。舞踊におけるステップの重軽は本質に近い。実際の音楽では、伴奏音形において低い音が強拍に当たることが多い。 上記の2つは相反する立場から語られるため別々に独立した概念であるが、しかし双方とも共通する事柄が有る。近年のコンピュータを用いた研究により、強拍と弱拍は微妙に長さが違うことが肉眼で確認できることが証明された。この違いをメトロノーム記号で厳密にコントロールする作曲家も20世紀後半から増え始める。近藤譲はMM96から93へといったテンポチェンジを行うが、本人の説明では「ムードチェンジ」と言っている。カールハインツ・シュトックハウゼンも、テンポの半音階といった概念は、これら強拍と弱拍の微妙な差異のコントロールが源泉であることを語っている。 1拍を表す音価. 楽譜上で1拍を表す音価には、4分音符ないし付点4分音符が多く使われ、2分音符ないし付点2分音符、8分音符、16分音符がそれに次ぐ。そのほか、稀に付点8分音符や32分音符などがあり、また古い曲などでは全音符を1拍とする拍子(その場合拍子記号の分母は1で表される)もある。(しかし福井知子や川島素晴の作品の中には、24や12といった分母を持つ拍子がある。それらは事実上、16分3連や8分3連などの、3連符の長さを持つ音価である。)その音価によって演奏上何らかの違いが生じるわけではなく、4分の3拍子を8分の3拍子で書き直しても、演奏上同じである。一般にはゆっくりしたテンポの曲で大きな音価の拍が使われると考えられがちであるが、モーツァルトなどでは非常にゆっくりとした8分の3拍子が存在する。
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ホースシュー・ラスベガス
ホースシュー・ラスベガス("Horseshoe Las Vegas")は、アメリカ合衆国、ネバダ州、ラスベガスにあるカジノホテルである。 このホテルはメトロ・ゴールドウィン・メイヤーオーナーであるカーク・カーコリアンが開業し1985年までMGMグランドと呼ばれていた。開業当初は世界最大のホテルであり、これは彼が建てた世界最大の異名を持つ3つのホテルのうち2番目にあたる。(他はインターナショナル・ホテル、現在のLVHラスベガス・ホテル&カジノとMGMグランド)このホテルが売却され名前がバリーズに変わった後、MGMグランドの名はマリーナホテル跡に新たに建てられたホテルに付けられた。これが現在のMGMグランドホテルである。 フォーコーナーから正面玄関まで61mのガラスのチューブが伸びていて、このホテルの名物になっている。
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強作用素位相
数学の一分野である関数解析学における強作用素位相(きょうさようそいそう、; SOT)とは、ヒルベルト空間上の(あるいは、より一般にバナッハ空間上の)有界作用素全体の成す集合上の局所凸位相で、作用素 "T" を実数 formula_1 へと写す評価写像がそのヒルベルト空間内の各ベクトル "x" について連続であるようなもののうち最弱のものを言う。 SOT は、弱作用素位相よりも、ノルム位相よりも弱い。 SOT は、弱作用素位相の備える良い性質をいくつか欠いているが、より強い位相であるため、この位相において様々な物事を証明することはしばしばより簡単なこととなる。さらにそれは自然なことで、なぜならば SOT は単純に作用素の点別収束の位相だからである。 ノルム位相がの枠組みを与えるように、SOT はの枠組みを与える。 ヒルベルト空間上の有界作用素からなる集合上の線型汎函数で、SOT において連続であるようなものは、WOT(弱作用素位相)においても連続である。このことより、WOT における作用素の凸集合の閉包は、SOT におけるそのような集合の閉包と等しい。 上述の用語は、ヒルベルト空間の作用素の収束の性質を言い換えるものであることにも注意されたい。特に、複素ヒルベルト空間に対しては、偏極公式により、強作用素収束は弱作用素収束を含意することが容易に確かめられる。
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アレクサンデル8世 (ローマ教皇)
アレクサンデル8世(Alexander VIII、1610年4月22日 - 1691年2月1日)は、ローマ教皇(在位:1689年 - 1691年)。本名はピエトロ・ヴィット・オットボーニ()。 生涯. ヴェネツィアの名家の出身で、枢機卿を経て、ブレシアの司教となった。フランス王ルイ14世の大使がインノケンティウス11世の死去後の教皇選挙での彼の選出を後押ししたのである。そのようなフランスとの関係とは別にジャンセニスムに対しては厳しく、1682年にフランスの司教団によって出された「ガリカニスムの4か条」を断罪している。 彼の時代、教皇庁の財政は大規模な慈善活動と親族登用のゆきすぎによって破綻寸前であった。しかし学問への関心が高かった教皇は、当時イタリアで暮らしていたスウェーデンのクリスティーナ女王からバチカン図書館のための書籍コレクションを購入している。1691年2月1日に死去。
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安芸山本駅
安芸山本駅(あきやまもとえき)は、かつて広島県安佐郡長束村(現・広島市安佐南区長束)にあった、鉄道省可部線の駅。1943年(昭和18年)10月1日に営業休止となった。 概要. 現在の可部線の原点となる大日本軌道広島支社線の開業とともに設置された。当初は長束停留場を名乗っていたが、後に開業した隣の大師停留場(現在の安芸長束駅)が新たに長束停留場を名乗ることになり、また当駅が山本村(現在の安佐南区山本)の入り口に位置していたことから山本停留場に改称、後に国有化により安芸山本駅となった。 1943年(昭和18年)、可部線内の他のいくつかの駅とともに休止された。 小説「黒い雨」においては「山本駅」として当駅が登場するが、広島市への原子爆弾投下時(1945年(昭和20年)8月6日)には既に営業を休止(実質廃止)しており、事実と異なっている。 可部線と並行する旧国道(県道277号)に、広島交通の「安芸山本」バス停が存在している。
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ネーション (タイの新聞)
ネーション(英:"The Nation", タイ:เดอะ เนชั่น)は、タイ王国の英語日刊新聞。ネーション・マルチメディア・グループ が1971年7月1日に創刊。 概要. 「ボイス・オブ・ザ・ネーション」("The Voice of The Nation")が元になっている。その後1976年10月6日に廃刊し、「ネーション・レヴュー」("The Nation Review")を創刊。 その後再び名を「ネーション」("The Nation")と変えて現在に至る。 編集長はトゥンサティット・タプティム(ตุลสถิตย์ ทับทิม)。 2008年3月5日からは娯楽、健康、ライフスタイル、スポーツに分かれた。通常紙には経済、政治ニュースが掲載。さらに英字日刊タブロイド紙「デーリー・エクスプレス」(Daily Xpressเดลี่ เอ็กซ์เพรส)を発刊し、1日10万部をホテル、デパート、 駅で無料配布している。「ネーション」紙の折込みにも入れている。 2011年3月16日付の紙面で1ページを割いて「前を向いて歩こう日本」と日本語、英語、タイ語で表記して東日本大震災で被害に見舞われた日本を激励した。中央に日の丸を印刷した紙面は、お見舞いの言葉とタイの銀行で受け付けている寄付金の口座番号も記している。 2011年3月31日、東日本大震災の被災者に向けてタイ国民が義援金などの支援を提供してくれたことに対し、在タイ日本国大使館は感謝を伝える半ページの広告を『ネーション』に出した。在タイ日本国大使館によると、新聞社側の善意で無料で掲載された。広告は日本とタイの国旗をあしらい、日本語、タイ語、英語で「日本国民への温かいご支援・ご声援ありがとうございます」と書かれている。 記事内容は基本的にタイ在住の外国人層や、英語を読む知識人層を意識したもので、タイ国内の一般世論と乖離が大きいこともある。タイ語ができない学者や評論家、ジャーナリストが、「ネーション」の記事をもって「タイ国内の反応」などと発言・報道している場合には注意が必要である。 広告収入の落ち込みのため、および国外から電子版ニュースを読む読者の方が多くなってきたため、2019年6月28日付けをもって紙媒体の発行を停止して電子版に完全移行した。
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戦略投票
戦略投票(せんりゃくとうひょう)とは、選挙における有権者の投票行動の中で個別の意見表明のためではなく、支持者にとって望ましい利益を得るために行う計略的な行為である。このことから、「戦略的投票行動」とも言われる。 戦略投票を行うには、開票結果、すなわちすべての投票者の投票行動を予測する必要があることから、昔は一部の団体でしか行うことが出来なかった。しかし現在では、世論調査などの開票予測が報道されるようになり、個人でも僅かな一手間で、戦略投票を行うことが出来る。 開票予測には、戦略投票する人自身の投票行動も含まれている。このため、ある時点の開票予測でと、それを受けた戦略投票での、戦略投票者の投票行動が異なる場合、開票予測は修正される。この修正の繰り返しは、開票予測がその投票のナッシュ均衡に達するまで続く。こうした理由により、戦略投票の分析・予測手段としては、ナッシュ均衡がよく用いられる。 一つの投票でのナッシュ均衡は一つだけとは限らず、複数存在する場合もある。開票予測がナッシュ均衡の一つと一致していれば、そのナッシュ均衡が実現する。このことは、開票予測報道を操作できる者は、ナッシュ均衡の範囲内で投票結果を操作できることを意味する。 ギバード・サタースウェイトの定理. 3人以上の候補者からどの候補者を一つ選ぶかを、有権者の表示する選好順序のみで決める際、以下の三つのうちどれかが成り立つ定理である。ただし、くじ引きのような外部からのノイズはこれを除く。 1と2は正当な選挙方法ではない。したがって、選好投票に帰着できる条件と合致する3の方法のみ、戦略投票が可能である。 アナウンス効果. 戦略投票を行うには、選挙結果の予測を得なくてはならない。マスコミ各社の世論調査結果は、大抵の有権者にとって予測を得る絶対的な手がかりであり、これを基にして戦略投票が行われる。すると、報道内容がその選挙制度のナッシュ均衡の一つを表現している場合は、予言の自己実現が成り立ち、世論調査をマスコミが操作したか否かに関らず、報道された結果が実現する。このように風聞・報道内容が結果を左右する現象はアナウンス効果と呼ばれ、バンドワゴン効果とアンダードッグ効果(いわゆる「判官びいき」)の相乗からなるともいわれる。 予言の自己実現効果がない=ナッシュ均衡から外れた報道内容なら、アナウンス効果は起きない。結果を報道内容に近づける効果を持たないため、報道内容を操作すると結果と異なってしまい、予測を得る手がかりとしての信用を失うからである。逆に予言の自己実現効果がある報道内容なら、報道内容を操作しても結果と同じになるため、予測を得る手がかりとしての信用を高める。 種類. 当落線上の候補への乗り換え. 単記非移譲式投票では、当選・落選のどちらかが確実な候補に投票しても、候補者の当落には影響しない。そこで、自分の最も支持する候補ではなく、当落線上の候補、いわゆる次善の候補へ投票する。これにより、次善の候補を当選させ、最悪の候補を落とすことができる。規模などの都合で候補者を立てられない政党も行うことがある。デュヴェルジェの法則の成立要因。 投票協力・選挙協力(swap vote). 自分の支持する政党が、自分の住む選挙区では当選・落選のどちらかが確実な候補を立てている場合、他の選挙区の投票者に自分の党への投票を頼み、代わりに自分は他の選挙区の投票者の支持する党に投票すること。欧米選挙における投票者同士を引き合わせるサイトがある。 政党が自らこれを進めると、「選挙協力」と呼ばれる事がある。日本では選挙協力として政党レベルで行われ、現在では自民党と公明党のものが有名。小選挙区制の結果を比例代表に近づける効果がある。 アメリカ合衆国では2000年と2004年の大統領選挙の際、ラルフ・ネーダー候補と民主党の指名候補のそれぞれ一部の支持者の間で行われた。しかし、ネーダーはこの動きには賛成しなかった。 一方、ドイツ・日本等の様に選挙方法等に複数の方法を用いた国や地域がある。そうした国や地域の場合、投票者が特性の異なる複数の票を使う場合、同じ選挙区の投票者同士でも投票協力が行われる。ドイツの「貸し票」が有名。 投票目標の指示. 単記非移譲式投票では、支持者の数が多い政党でも、その支持票が候補者に均等に流れなければ、票が集まらなかった候補者が落選し、票を集め過ぎた人の票が無駄になる。そこで、自党の支持者に手紙等の指示を送り、党の選挙対策係が支持票を操作する。特に、公明党や、共産党のような支持者を組織化した政党では、選挙(主に市区町村議会議員選挙)の際に、地域ごとにどの党公認候補に投票すべきか指定することで、広義の死票(票の取り過ぎ)の発生や、共倒れの防止を図っているケースが多い。
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鋳物筆
鋳物筆(いものふで)は、鋳物砂で鋳型を製するときに用いられる毛筆である。その用途は、込型を砂から抜き出す前に、木型と砂とが接する面に水分を与えて砂が崩れるのを防ぎ、また砂型の破損部を補修修繕するのに際してあらかじめその箇所に補給の砂が容易に密着するように水分の付与すること、および出来上がりの型面の清掃、黒煙マイカ粉末の塗布である。種類としては、前者用の水を含ませる水筆と後者用の板筆とがある。
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ロバート・ハーレー (初代オックスフォード=モーティマー伯)
初代オックスフォード=モーティマー伯爵ロバート・ハーレー( , 1661年12月5日 – 1724年5月21日)は、イギリスの貴族・政治家。アン女王の晩年に政権を率いてユトレヒト条約を締結、スペイン継承戦争を終結させた。ダニエル・デフォーとジョナサン・スウィフトのパトロンとしても知られている。 議会運営の巧みさから、「策士」の異名をとった。 生涯. 生い立ち. 政治家のと2人目の妻アビゲイル・スティーブンス(、の娘)の息子として、1661年12月5日にロンドンので生まれ、6日にコヴェント・ガーデンので洗礼を受けた。同名のの孫にあたる。1671年から1680年までバーフォード近くの村の学校で教育を受けた後、1680年から1681年までユグノーの教師アンリ・フベール()から教育を受けた。その後、1682年にミドル・テンプルに入学した。 このように、幼少期のハーレーは非国教徒とホイッグ党員となるべく育てられ、父エドワードは1678年には息子のオックスフォード大学進学を諦めている。後に妻の叔父にあたるの影響を受けてカントリ派、ついでトーリー党に転じることとなるが、非国教については最後まで正式に放棄しなかった。 庶民院議員から議長へ. 1687年頃より庶民院議員への就任を望んだが、しばらくは機会に恵まれず、父の領地の管理と1689年3月に就任したの職務に勤しんだ。1688年の名誉革命にあたり、父とともに騎兵部隊を募ってウスターを占領し、オラニエ公ウィレム3世(後のイングランド王ウィリアム3世)への支持を表明したことがホイッグ党支持のボスコーエン家()に評価され、ボスコーエン家が支配するで1689年4月に行われた補欠選挙で無投票当選し、政界入りを果たした。ハーレーは5月14日に処女演説をしたのち、1689年仮議会でホイッグ党正統派の一員として行動した。 翌1690年イングランド総選挙でははじめヘレフォードシャーのからの出馬を検討したが、同選挙区の情勢を検討した結果レンスター選挙区からの撤退を決めた。ハーレーは代わりにで立候補、と接戦ののち、の結果1690年11月に逆転当選を果たした。 議会では当選が宣告された翌日に早くも庶民院の軍部会計監査委員会()に加入するなど議事に熱心で、同年12月には庶民院の公会計委員()に選出された。後年にハーレーが回想したところでは国王ウィリアム3世が1691年6月から1702年に死去するまで度々ハーレーを呼び出したとされ、このときは国政の官職に就任しなかったもののでの名誉職は受け入れ、以降の再選を揺るがないものにした。1693年にフォーリーらトーリー党員とともに反コート派(カントリ派)に転じ、1694年11月にを提出して可決させたほか、1696年に国家土地銀行()を設立してイングランド銀行を取って代わろうとし、一旦は設立に成功されたもののイングランド銀行の置換は失敗に終わった。また、1696年末に(ウィリアム3世暗殺未遂事件の首謀者)の私権剥奪に反対票を投じた。 大同盟戦争が終わった後、1697年12月に軍の規模を1680年時点まで縮小することを主張して認められ、1698年12月にもイングランド陸軍を7千人に制限軍縮を行った。これにより一躍トーリー党の有力者にのし上がったが、穏健派だったためホイッグ党や非国教徒から敵視されることもなく、の後、同年2月10日に議会が開会すると、120票差で第2代準男爵サー・リチャード・オンズローを破って庶民院議長に選ばれた。もはじめ出馬を表明したが、ウィリアム3世の要請を受けて取り下げている。しかし、の後に行われた議長選挙ではリトルトンが再出馬し、ウィリアム3世の支持も受けたため、ハーレーは再選されたものの4票差という僅差だった。アン女王の即位に伴うの後、10月に議長に再選、11月に議会を代表してトーリー党所属のジョージ・ルークへの謝意を表明した。 1702年に議論となった便宜的国教徒禁止法案を巡り、イングランド国教会の一派である高教会派を風刺したダニエル・デフォーが投獄されたが、ハーレーはデフォーに目を付けて援助を行い釈放させた。デフォーはハーレーの意を受けてパンフレット宣伝を行い、ジャーナリズムを展開していくことになる。 北部担当国務大臣. アンの治世ではスペイン継承戦争が課題として示され、シドニー・ゴドルフィンは友人でイングランド軍総司令官の初代マールバラ公爵ジョン・チャーチルを大陸へ送り出して後方でイングランドを支える役目を負っていた。ハーレーはトーリー党員だが穏健派であるためゴドルフィンに協力、急進派の初代ロチェスター伯爵ローレンス・ハイドと第2代ノッティンガム伯爵ダニエル・フィンチとは一線を画していた。1702年にロチェスターが、1704年にノッティンガムが政権を去ると1704年4月27日に枢密顧問官に任命され、さらに同年5月18日に北部担当国務大臣に選ばれ、閣僚入りしてゴドルフィンと共に穏健派として政権を率いる立場になった。ハーレーは国務大臣に就任した後も1705年4月の議会解散まで庶民院議長に留任した。 しかし、1705年にホイッグ党が議会の与党になり、ゴドルフィンが政権運営のため閣僚にホイッグ党員を入れた頃から警戒し始めた。スコットランドとの合同交渉では1706年4月10日にイングランド代表の1人に選出されたが、12月にゴドルフィンがスコットランドとイングランド合同の必要性とホイッグ党の要求で第3代サンダーランド伯爵チャールズ・スペンサーを南部担当国務大臣に起用するとゴドルフィンに不信感を抱いたアンに接近した。グレートブリテン王国が成立した翌1707年にアンの親友でマールバラ公の妻サラ・ジェニングスとアンが衝突、サラの従妹でハーレーの又従妹でもあるアビゲイル・メイシャムがアンの信頼を得ると、アビゲイルを通してアンの側近となりゴドルフィンから離れていった。1708年にはがに、がに任命されたが、ゴドルフィンは2人の任命をめぐりハーレーが(大臣間の協議なく)独断でアン女王と相談して任命を決めたと疑い、ハーレーとアン女王がそれぞれ否認したもののハーレーとゴドルフィン・マールバラの間の不信感は増大した。 野党期. 1708年にゴドルフィンとマールバラ公が辞任を表明した時、支持者がアンだけで他の閣僚や議会の反発に遭い逆に形勢不利となり、国務大臣を辞任して下野した。しかし戦争の長期化に伴う政権への不満を抱くホイッグ党の穏健派やトーリー党を取り込み、1710年にロチェスター・ノッティンガムら急進派とも組んで巻き返しを図った。アンを通してホイッグ党員の罷免を行い、6月にサンダーランドを罷免、8月にゴドルフィンも更迭させ、財務大臣に就任して与党に返り咲いた。10月の総選挙ではトーリー党が圧勝し、完全にホイッグ党に対してトーリー党が優位に立った。翌1711年にグレートブリテン貴族としてオックスフォード=モーティマー伯爵に叙されるとともに、大蔵卿に就任して政権を握った。以後、同じく野党に下りながら協力していった北部担当国務大臣のヘンリー・シンジョンと共にスペイン継承戦争終結へ邁進していくことになる。 ハーレー政権. ハーレーは主要な敵国であるフランスとの和睦を考え1710年からフランスの外相トルシー侯ジャン=バティスト・コルベールに元駐仏大使の初代ジャージー伯爵エドワード・ヴィリアーズを通して秘密交渉を行い、1711年になって同盟国オランダに和睦を明かしたが、以後オランダにも内密でフランスとの交渉を進めていった。1711年にジャージーが急死してからはシンジョンを加えて交渉を進め、一方でスウィフトを通して交渉の正当性を世論に訴え、逆に同盟国を戦争を長引かせていると非難した。 更にマールバラ公を司令官から罷免して第2代オーモンド公爵ジェームズ・バトラーを後任に据え、ホイッグ党員が多い上院に対してはアンに働きかけて与党派の12人を貴族に叙爵、上院も押さえて和平に動いた。しかしながら1712年に他の同盟国も含めた予備交渉の段階になって内容が明らかになると、同盟国からの反発により再びフランスとの秘密交渉に取り組み、オーモンドにはフランス軍と交戦しないよう命令し、トルシーとシンジョンが休戦を結ぶとイギリス軍を引き上げさせた。同盟国の非難をよそにフランスとの和睦交渉を続け、1713年にユトレヒト条約を締結、海外植民地を増加させイギリスの利益増となった終戦によりトーリー党及びハーレーは絶頂期を迎えた。 しかし、トーリー党は王位継承問題を巡って揺らいでいて、アン亡き後に又従兄に当たるドイツのハノーファー選帝侯ゲオルク・ルートヴィヒが後継者に選ばれていたが、アンの異母弟でカトリック教徒のジェームズ・フランシス・エドワード・ステュアートを支持するジャコバイトも含まれていて、ハーレーはハノーファー派だったが、ハーレーと主導権を巡って対立していたシンジョンはジャコバイトに肩入れしたため党内一致に失敗した。しかも、大陸でマールバラ公と共にフランスと戦っていたゲオルク・ルートヴィヒはハノーファーを含む同盟国を見捨てた単独講和に不満を抱いていたため、トーリー党がアン亡き後に政権を継続出来る見通しが無くなっていた。おまけに、ハーレーは1713年から飲酒でしばしば体調不良になり、シンジョンに主導権を奪われ指導力の低下からアンにも見限られつつあった。1714年7月27日にハーレーは第一大蔵卿を罷免された。後任は中立派の初代シュルーズベリー公爵チャールズ・タルボットで、シンジョンは公金横領の疑いで選ばれなかったためトーリー党の衰退は明らかになっていった。 不遇の晩年. 大蔵卿罷免から4日後の8月1日にアンが死去、ゲオルク・ルートヴィヒが9月18日にイギリスに上陸してジョージ1世の即位を出迎えたが、冷たい扱いを受けた。ハーレーは返り咲きが無いことを悟ってヘレフォードシャーへ引退した。しかしながら翌1715年の総選挙でホイッグ党が大勝するとロバート・ウォルポールに単独講和を推進した責任を問われ庶民院で弾劾、ロンドン塔へ投獄された。シンジョンとオーモンドも弾劾されジャコバイトに合流したが、反乱は即座に鎮圧され亡命の身となり、トーリー党はなすすべも無く没落、ホイッグ党は与党に返り咲き長期政権を築いていった。 一方のハーレーはロンドン塔に投獄されたままであったが、彼は1717年5月に貴族院に弾劾の審議を行うよう請願を出し、貴族院はそれを受けて6月24日に審議をはじめた。しかし弾劾の手続きをめぐり両院の間で議論が紛糾、結果的には7月1日の審議に訴追者が現れなかったことでハーレーは無罪放免された。以降も1718年2月に貴族院で暴動法案()に反対、1719年2月に貴族法案()に反対したが、その後は貴族院にほとんど登院しなくなった。1724年5月21日にの自宅で死去、で埋葬された。息子のエドワード・ハーレーが爵位を継いだ。。 晩年は指導力低下から足をすくわれたが、ユトレヒト条約を締結した意義は大きく、イギリスがヨーロッパの主要国に躍り出る一歩となった。また、海外植民地と貿易の利潤獲得によりイギリスが海外に勢力を伸ばして海洋国家として世界進出を始めるきっかけも作り、後の大英帝国を築く元になった。 栄典. 爵位. 1711年5月23日に以下の爵位を新規に叙された。 家族. 1685年5月14日にの娘エリザベス(1691年11月30日没)と結婚、4人の子を儲けた。 1694年10月4日にサイモン・ミドルトン()の娘サラ(、1737年6月17日没)と再婚、子は無かった。
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本庄長英
本庄 長英(ほんじょう ながひで、生没年不詳)は、戦国時代の武蔵国本庄(現在の埼玉県本庄市出身)の武士。通称は越前守。 本庄越前守長英は、児玉党の嫡流であり、本宗家を継いだ本庄時家(庄氏から本庄氏を名乗った)の最も末裔とされる武士である(『新編武蔵風土記稿』等)。遵って、系統分類としては、時家系(児玉党系)本庄氏である(どの文献にも家次系本庄氏の末裔とは記されていない)。本庄氏の系図が複数存在している事もあって、時家から長英までの系譜の流れは不明であり、謎が多い人物である。 人物. 成田氏の家臣. 忍城主となった成田氏の家臣とあり、生きた時代は戦国期とみられる。『天正十年成田家分限帳』には、「御家門 永楽千貫文 本庄越前守長英」とある。また、『新編武蔵風土記稿』には長英に関する記述が見られるが、これは本庄信明(本庄宮内少輔)の事を誤って長英と記述してしまった可能性があり、信憑性の高い伝承とは言えない(19世紀、つまり後世の資料である為)。また、これほどの所領を有していて、資料が少ないのも謎である。 戦国期以前より児玉党系本庄氏は代々上杉氏の一族に仕えてきたが、戦国期になると武蔵国北部で成田氏の力が増し、その過程で本庄氏の一族の中にも成田氏の家臣となった一団が生じたものと見られ、それが長英だったと考えられる。当時、本庄氏の同族である児玉氏が成田氏によって滅ぼされ、本庄氏一族の間に衝撃が走ったものと考えられる。これがきっかけとなって、滅ぼされない為の対策の一環として、長英を成田氏の家臣にしたと考えられる。 時代は下って、本庄城を築いた本庄実忠の時代となるが、『上杉家文書・関幕注文』の中に 「永禄4年(1561年)3月、上杉謙信が後北条氏の居城である小田原城へ攻め寄せた折、本庄左衛門佐は忍城主成田氏に所属し、 同(本庄)左衛門三良は、足利にいる長尾氏に所属して、小田原城攻めに参加した」 とあり、戦国時代に本庄氏一族の中に成田氏の家臣となっている一団があった事を示している。また、本庄三良なる人物は足利から進軍したとあるから、本庄氏が武蔵国より東北の方にも展開していた事が分かる。
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君と。
『君と。』(きみと)は、ハジ→の6枚目のメジャーシングル。発売元はユニバーサルミュージック。
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台東庁
台東庁(臺東廳、たいとうちょう)は、かつて台湾の地方行政区分だった五州三庁の一つで、現在の台東県にあたる。 人口. 1941年台湾常住戸口統計より 法院(裁判所). 昭和20年(1945年)当時<br> (審判の行うことの無かったものを「裁判所」とカウントしなかった)(沿革略) 警察. 昭和20年(1945年)当時 気象. 昭和17年(1942年)当時 専売局. 昭和20年(1945年)当時 鉄道. 昭和19年(1944年)の路線 道路. 昭和14年(1939年)当時 港湾. 昭和13年(1938年)当時 企業. 庁内に本社を有する資本金50万円以上の企業である(昭和7年・1932年当時)
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秋色女
秋色女(しゅうしきじょ、寛文9年(1669年) - 享保10年4月19日(1725年5月30日))は江戸時代の俳人。通称おあき、号は菊后亭。氏は小川氏か。 江戸小網町の菓子屋に生まれる(現在東京都港区にある秋色庵大坂家という和菓子店である)。五世市川團十郎の大叔母にあたる。夫の寒玉とともに宝井其角に師事して俳諧を学ぶ。1690年(元禄3年)初入集。其角の没後、点印を継承し、遺稿集『類柑子』を共編し、七回忌集『石などり』を刊行した。 13歳の時、上野寛永寺で「井戸端の桜あぶなし酒の酔」の句を詠んだという秋色桜伝説や、武家の酒宴に召されて「武士の紅葉にこりず女とは」と詠んだという女丈夫伝説など、川柳・錦絵・講談・歌舞伎の題材として扱われた。
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訃報 2010年7月
本項訃報 2010年7月は、2010年7月中に物故した人物の一覧である。
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ユニティ (潜水艦)
ユニティ (HMS Unity) はイギリス海軍の潜水艦。U級。 1936年11月5日発注。1937年2月19日起工。1938年2月16日進水。1938年10月5日就役。 1939年8月31日、「ユニティ」、および同級の「アンディーン」、「Ursula」はBlythよりHeligoland Bightへ向け出航。3隻とも9月13日、Blythに帰投した。帰投後、3隻ともエンジンフレームにひびが生じていることが見つかった。 10月5日、Blythよりデンマーク西岸沖へ向け2度目の哨戒に出発。10月27日、ロサイスに帰投。11月5日、ロサイスよりスカゲラク海峡へ向け3度目の哨戒に出発。11月21日、Blythに帰投。11月18日、損傷した潜水艦「Triad」の撤退掩護のためBlythより出航。12月2日、Blythに帰投。12月13日、ドイツの大型艦発見によりBlythより出撃。翌日呼び戻され、12月15日にBlythに帰投。12月21日、Blythよりデンマーク西岸機へ向け6度目の哨戒に出発。1940年1月5日、Blythに帰投。2月29日、Blythより7度目の哨戒に出発。Jøssingfjordにいたドイツの補給船「アルトマルク」が出航準備を整えているとの情報により、3月3日に「ユニティ」はそちらへ向かわせられた。「アルトマルク」は3月6日にJøssingfjordを離れた。「ユニティ」は「アルトマルク」が領海外へ出るなら攻撃するよう命じられていたが、「アルトマルク」はそのような行動はとらなかった。3月11日、Blythに帰投。3月24日、Blythより8度目の哨戒に出発。3月25日、「ユニティ」はドイツ軍機に沈められたオランダ漁船「Protinu」の乗組員の乗る救命艇を発見して生存者8名を収容。3月28日にメイ島沖でトローラー「Agate」へ生存者を移した。3月30日、Blythに帰投。 4月2日、Blythより9度目の哨戒に出発。4月5日、「ユニティ」はHeligoland Bighでドイツ潜水艦「U2」に対して魚雷3本を発射したが外れた。4月9日、Ringkøbing沖で船を発見し、3000トンの「Casablanca」と識別された。艦長Brown大尉は、目標は無警告で攻撃できるものではないと判断。彼は状況を悪化させるだけになるだろうことは行いたくはなかったが、監視はすることにした。すると問題の船はエンジンを止め、続いて2発の爆雷が「ユニティ」に近くで爆発した。相手がQシップだと確信したBrownは雷撃を行おうとするも結局行えず、退避した。4月8日に問題の海域で「Casablanca」の姉妹船で潜水艦用の罠に改装されていた「」が哨戒艇「VP403」、「VP408」とともに潜水艦を攻撃しており、日にちの違いが生じている理由は定かではないものの、これが「ユニティ」の遭遇したものであろう。4月17日、Blythに帰投。 4月29日17時30分、「ユニティ」はBlythより出航した。その日の朝にBrownが病気になったため、「L23」艦長であったFrancis Brooks大尉が急遽「ユニティ」に移り、その指揮を執った。濃霧で視界不良の中「ユニティ」は掃海水道を北上したが、そこには南航する船団も入ろうとしていた。何故か「ユニティ」の士官にはその船団の情報が伝わっていなかった。19時7分に船の警笛が聞こえ、「ユニティ」も警笛を返した。Brooksは回避行動をとったが、今度はすぐ近くから別の警笛が聞こえた。Brooksが後進全速を命じた直後にノルウェー貨物船「Atle Jarl」(1173トン)が霧の中から現れ、19時10分に「ユニティ」に衝突。5分足らずで「ユニティ」は沈没した。動いたままであった左舷側の電動機を止めに向かった者と、それについていった者の計2名が艦と共に沈んだ。他は2名を除き、戻ってきた「Atle Jarl」に救助された。
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姫路 - 鳥取線
姫路 - 鳥取線(ひめじとっとりせん)は、日本のバス路線の名称。
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女子EHFチャンピオンズリーグ
女子EHFチャンピオンズリーグ(じょしイーエイチエフチャンピオンズリーグ、)は、欧州ハンドボール連盟(EHF)の主催で毎年9月から翌年の5月にかけて行われる、クラブチームによる女子ハンドボールの大陸選手権である。男子のEHFチャンピオンズリーグに該当する。最多優勝はスパルタク・キーウの13回である。 概要. 女子CLは1961年にヨーロピアンチャンピオンズカップとして初めて実施。1993–94シーズンから現行の方式となる。 大会はシードを除く8チームによるノックアウト方式の予備予選を実施し、勝利チームがグループステージに進む。シード14チームを加えたグループステージでは4組に分かれてホーム・アンド・アウェイ方式で上位3チームがメインラウンド進出。メインラウンドもH&A方式で上位4チームが準々決勝進出。 準々決勝もH&A方式で実施。2試合の合計得点でファイナル4進出となるが、同点の場合はアウェーゴールで決定するが、さらに同点の場合は延長戦を行う。それでも決着がつかない場合は7mスローコンテストで決着する。ファイナル4以降はMVMドームでの一発勝負。 歴代優勝チーム. ファイナル4導入以降の成績のみ
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名古屋博物館
名古屋博物館(なごやはくぶつかん)は、1878年9月15日に愛知県名古屋区門前町總見寺境内に設立された産業博物館。 概要. 愛知県下の産業振興を目的とした物産陳列館で、開設時に開催された「名古屋博覧会」などの愛知県の物産展示会場となったほか、書画骨董の展示会や茶会・演奏会の会場など様々な用途に使用された。当初の半官半民の運営から、1881年に公立名古屋博物館、1883年に県立の愛知県博物館となり、1910年に愛知県商品陳列館と改名していった。愛知県博物館時代には、門前町博物館、愛知博物館とも呼ばれた。 その後2012年までに、愛知県商品陳列所、愛知県商工館、愛知県中小企業センター、愛知県中小企業振興公社、あいち産業振興機構と組織変更を経ながら存続している。 沿革. 名古屋博物館. 名古屋博物館は、名古屋区門前町總見寺境内に、愛知県下の産業振興を目的とした物産陳列館として新築された。総工費12,252円のうち県費の補助は6,157円で、残額は民間からの寄付金で賄われた。 1878(明治11)年9月15日に落成。同日から11月3日まで50日間、「名古屋博覧会」を開催し、公立医学校の教頭だったローレツが人骨などを出品した。 公立名古屋博物館. 1881(明治14)年に公立名古屋博物館と改称。 愛知県博物館. 1883(明治16)年7月、県立の博物館となり、同年9月、愛知県博物館と改称。門前町博物館、愛知博物館とも呼ばれた。 1890年6月、常時開館となる。 愛知県博物館では、県下産品の物産展が開かれたほか、書画骨董の展示会や、備え付けの「猿面の茶室」での茶会、明清楽の演奏会などが催された。 1907(明治40)年、建物を取り壊し。 愛知県商品陳列館. 1910年、改築が完了し、愛知県商品陳列館と改称。 その後. その後、2005年までに、愛知県商品陳列所、愛知県商工館、愛知県中小企業センター、愛知県中小企業振興公社へと改称。 (財)愛知県中小企業振興公社は2006(平成18)年4月に(財)あいち産業振興機構に名称を変更し、2011(平成23)年12月に公益財団法人へ移行した。
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シューホフ・タワー
シューホフ・タワーは、ウラジーミル・シューホフによって設計された一連の双曲面構造の外観を持つ建築様式(もしくは同建築様式に則り建造されたとされる塔構造物全般)。 概要. 双曲面状の構造の強靭さを活用する事で少ない鋼材で塔を建設する事ができるため、主に旧ソビエトを中心に幾つか建設された。積雪時に積もりにくい。理論的には以前からあったが、ロシアの技術者ウラジーミル・シューホフ(1853年 - 1939年)が最初に建設したのでこの名称で呼ばれる。 構造. どれも帯鋼を双曲面状に編んだ鼓のような上下が広がる形状をしている。 モスクワの電波塔. 1922年にこの構造を用いて建設されたモスクワの電波塔「シャーボロフスカヤのラジオ塔」は、単に「シューホフ塔」とも呼ばれ、150mもの高さを持ち、その美しい曲線美から、ロシア・アヴァンギャルド建築の代表作として現在でも夜にはライトアップされている。2002年までラジオ・TV電波塔として活躍した。2014年には取り壊し計画が発表されたが、それに反対した著名な建築家たちがプーチン大統領にロビー活動を行ない、取り壊しを免れ、$1,300万ドル(約13億5千万円)をかけた修復作業計画が実施される事になった。
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恋ではなく―― It's not love, but so where near.
『恋ではなく― It's not love, but so where near.』(こいではなく イッツノットラブバットソーウェアーニアー)は、2011年5月27日にAKABEiSOFT2(あかべぇそふとつぅ)の姉妹ブランドであるしゃんぐりらすまーとから発売されたアダルトゲーム。 概要. しゃんぐりらすまーとブランドの処女作にあたる。主要なスタッフとしてキャラクターデザイン・原画にトモセシュンサク、シナリオに早狩武志、ムービー制作には神月社【Mju:z】が参加している。 山形県酒田市が舞台となっている 。 あらすじ. 幼馴染の阿藤扶の「卒業までに映画を撮りたい」という願いをかなえるべく、八坂典史と槙島祐未は複数の部に協力してもらっての映画製作に乗り出し、山形県酒田市飛島でロケを決行する。
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桜坂 (名古屋市)
桜坂(さくらざか)は、愛知県名古屋市守山区の地名。 地理. 名古屋市守山区の北東部に位置する下志段味地区の南部を占める。後述の通り、2022年(令和4年)に設定された町名で、それ以前は大部分が守山区大字下志段味であり、一部に大字吉根字日ノ後を含む。 学区. 市立小・中学校に通う場合、学校等は以下の通りとなる。また、公立高等学校に通う場合の学区は以下の通りとなる。なお、小・中学校は学校選択制度を導入しておらず、番毎で各学校に指定されている。
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倫理学原理
『倫理学原理』(りんりがくげんり、"Principia Ethica")は、1903年のジョージ・エドワード・ムーアの著書。「善」は定義不可能であると主張し、自然主義的誤謬の解説を提示する。ムーアの主張は倫理哲学の画期的な進歩として長く評価され、ムーアのほかの分野における業績と比べて見劣りするとされているものの、『倫理学原理』は大きな影響力を持つ。 歴史. 『倫理学原理』は1903年10月にケンブリッジ大学出版局から出版された。1922年と1929年に増刷が出版された。による序文を含むジャンニ・ヴァッティモのイタリア語版は1964年にから出版された。 概要. ムーアは、倫理学とは次の3つの基本的な問いであると主張する。 評価. 『倫理学原理』は大きな影響力を持つ著作であり、多くの人に倫理学に関する主張を事実の言明から導出することはできないと納得させた。は、本書のスペンサーとミルへの反論を通じて、ムーアは彼の世代を功利主義から解放したと評した。『倫理学原理』はブルームズベリー・グループにとっての聖書であり、彼らの美的価値観の哲学的な根幹をなすものであった。は、本書が無意味な世界で生き続ける方法を示した一冊であると評した。ムーアが「有機的全体」(organic whole)と呼ぶ美学の思想は、ヴァージニア・ウルフを含むモダニストにとっての美学の指針となり、の美学に影響を与えた。 ムーアのは、情緒主義などの非認知主義の倫理思想への道を開いたと考えられている。 『正義論』(1971)で、ジョン・ロールズは、ムーアの思想を『』(1907)におけるヘースティングス・ラシュドールの思想と比較した。ムーアの思想は、フランツ・ブレンターノ、マックス・シェーラー、ニコライ・ハルトマンの思想とも比較されている。 は、『倫理学原理』を倫理学以外の分野におけるムーアの業績と比べて見劣りすると評した。『倫理学原理』を当初は高く評価したジョン・メイナード・ケインズは、1938年の論文『My Early Beliefs』で本書をユートピア主義者であるムーアの人間の理性と良識についての根本的な信念であるとして批判している。
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エドワード・スイフト
エドワード・スイフト(Edward D. Swift、1871年-1935年9月25日)は、アメリカ合衆国の天文学者である。同じく天文学者のルイス・スウィフトの息子である。 父の後を継ぎ、54P/デヴィコ・スウィフト・NEAT彗星の共同発見者となった。
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幻影の航海
『幻影の航海』(げんえいのこうかい、"On Stranger Tides")は、アメリカのSF作家ティム・パワーズの歴史ホラー・ファンタジー小説。 概要. 1987年にエース・ブックスより刊行されたSF歴史ホラー・ファンタジー。翌年の世界幻想文学大賞にノミネートされた。 「黒髭」エドワード・ティーチ、チャールズ・ヴェイン、ウッズ・ロジャーズ、スティード・ボネット、アン・ボニーなど実在の海賊たちと、ブードゥー教のゾンビなどが登場する。 2011年の映画『パイレーツ・オブ・カリビアン/生命の泉』の原作。ハヤカワ文庫版は、映画の公開にあわせて『生命の泉』と改題されて再刊された。 あらすじ. 18世紀のカリブ海。叔父に父親の遺産を横取りされた青年ジョン・シャンダニャックは、叔父を捜す船旅の途中で海賊に襲撃される。海賊の首領、フィリップ・デイヴィスによって強引に仲間入りをさせられたシャンダニャックは、海賊たちが目指す「不老不死の泉」の探索に同行するはめに陥る。
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太王四神記
『太王四神記』(たいおうしじんき、)は、2007年9月11日から12月5日まで韓国MBCで放送されたテレビドラマ(時代劇)。HD放送、5.1chサラウンド放送。 概要. 宿命の星の下に生まれたタムドク(ペ・ヨンジュン)が幾多の苦難を乗り越えて、後に高句麗中興の祖といわれる第19代国王の広開土王となっていく姿を描くファンタジー時代劇である。映画並みの巨額の予算をかけ、コンピュータグラフィックスを多用するなど韓国ドラマとしては異例の作品で、同じMBCの時代劇で高句麗建国の祖を描いた『朱蒙 - チュモン -』に比べはるかにファンタジー色が強く、「歴史ファンタジードラマ」等と称されている。 監督は、ドラマ『砂時計』のキム・ジョンハク。主演のペ・ヨンジュンにとっては『冬のソナタ』以来5年ぶりのテレビドラマとなった。日本の作曲家、久石譲が音楽を担当した。 当初は2007年5月からMBCで放送開始の予定だったが制作上の問題から放送が延期された。また当初は百済の阿莘王(ス王子)役としてソン・イルグクが出演するはずであった。 済州島で行われたロケの期間中は、事故が相次いだ。監督のキム・ジョンハクとチェ・ミンスがそれぞれ交通事故に遭遇している。また主演のペ・ヨンジュンが、2007年10月24日の撮影中、刀が右手人差し指に当たり、靱帯を切断した。その後さらに、頚椎と肩靭帯を負傷した(2008年8月4日、肩靱帯の手術を受けた)。撮影は2006年3月から2007年12月2日までの1年8か月に及んだ。 韓国での最高視聴率は36%を記録した。 タイトルのハングルのロゴが、普通のハングルとは字の形が違っているが、これは、カリムト()文字を用いたためである。 番組の愛称は「テサギ(太四記)」。 海外展開. 2007年12月14日からは、中国電視公司(台湾CTV)でも放送されるなど、各国で好評を博している。 ただし高句麗史という中韓間の歴史認識問題に関わるテーマを扱っているため、中国(香港含む)では放送禁止となった。 日本. インターネット配信. 2007年12月3日から(NHK BShiの放送終了後)ニフティにてインターネットによる本編の動画配信を開始。 太王四神記公式サイトでは、全24話を韓国MBCオリジナル・ノーカット版でVOD配信中。またモバイルの公式サイトでもNTTドコモの対応携帯なら各話全て、au(KDDI/沖縄セルラー電話)、ソフトバンクモバイルの携帯では各話の名シーンをみることができる。 劇場上映. 2007年12月4日からはティ・ジョイにより、新宿バルト9ほかで、第一弾の映画『太王四神記』として劇場上映。毎週BShiでの放映翌日に毎話が全国公開された。 2010年4月10日から、「新編集版」として再編集した4部作が公開された。 パッケージソフト. オリコンDVD総合週間チャート、『太王四神記DVD BOX』(2008年6月16日付)2位。太王四神記メーキングDVD「金盤」「銀盤」(3月19日付)1位、2位。オリコン本BOOK部門の総合週間チャート、『太王四神記公式ドラマ・ガイド後編』(6月9日付)タレント関連書籍1位。総合4位。オリコンシングル総合週間チャート、「千年恋歌」(太王四神記の主題歌)1位 。 プレミアムイベント. 2008年6月1日、京セラドーム大阪で「ドラマ太王四神記プレミアムイベント2008 in JAPAN」が開催された。チケットの応募数は20万(3万5千枚に対し)で18分で完売し、当日のドラマプロモーションでは、久石譲の指揮・太王四神記オリジナルサウンドトラックのフルオーケストラ演奏や挿入歌のライブステージ、出演俳優と東映京都スタジオ俳優による殺陣&アクションショー、キム・ジョンハク監督などによるトークなどが繰り広げられ、全国の映画館13か所にも生中継された。これについては、nifty 太王四神記公式サイトにて配信されている。 視聴者層. 宮廷女官チャングムの誓い(参照)から2007年半ばになると、時代劇については男性にも人気で、2008年、朝日新聞系の雑誌『AERA』は、特に50代の男性が人気を支えているようだと分析した。太王四神記のDVDレンタル者の男女比率(大手レンタルショップ調査2008年)は男女半々だった 他メディア展開. 池田理代子による漫画化、宝塚歌劇団によるミュージカル化(後述)が行なわれた。 歴史認識問題と不祥事. 非常に文献の乏しい時代であり、史実から大幅な脚色がなされている。しかしこれに対しては韓国国内でも、広開土王の実在性を危うくする、神話要素が日帝残滓であるといった批判もある。また、高句麗を持ち上げすぎて百済を矮小化しているとの批判もある。 一部にいわゆる「朝鮮の大陸史観」を取り込んでおり、『朝鮮上古史』や『大朝鮮帝国史』にある超古代国家「チュシン ()」が現れる。また、通説では朝鮮半島南西部の百済の版図のどこかに比定されるが、中国大陸山東半島の「西百済」(『大朝鮮帝国史』の「外百済」にあたる)にあったという設定になっている。 高句麗史を「韓国史」として扱ったこのドラマは、中国の東北工程への対抗策であると看做されている。そのため、中国ではメディアを挙げた反発が起こり、放送禁止となった。 宮脇淳子は、「『朱蒙』や『太王四神記』のコスチュームを見ていると、改めて日本のアニメやテレビゲームを参考にしているんだなぁと感じます」「ファンタジーに名を借りて、どさくさ紛れにトンデモ史学まで盛り込んで歴史捏造を意図的に行っているのも、このドラマのポイントといえるでしょう。『朱蒙』では古朝鮮の版図に南京周辺まで含まれていましたが、『太王四神記』の世界観では、高句麗の領土が満洲全土やシベリアの奥深くまで広大に拡がっていました。…中国大陸の山東半島あたりに『西百済』なるものが存在していたというのです。ドラマにあったように、広開土王が即位してすぐ、百済のを攻めるというのは史実です。ところが、ドラマ内でのカンミ城の場所がどうにもおかしい。史実では漢江の河口あたりにあったと推定されるのですが、なぜか山東半島の先にあるのです。そればかりではなく、登場人物が遼河と呼ぶ川が山東半島の近くを流れていたりもする。そのため史実では遼河の東側にあった後燕国が西側にあるのです。歴史家の目から見ると、全く呆れ返ってしまうのですが、妄想ファンタジーを堂々と歴史ドラマと謳う人たちですから、彼らにとっての真のファンタジーとなると、地面まで歪曲してようやく成立するのかもしれません」「私が特に気になったのは、日本(国倭)との関係をなるべく描かないようにしているフシが見られることです。現在の中国吉林省集安市に、広開土王の功績を称えて息子の長寿王が建てた『広開土王碑』という石碑があります。その広開土王碑には『倭は辛卯年をもって来たりて海を渡り、百殘(百済)・新羅を破り、もって臣民となす』とあります。この碑文は一部が欠落しているために様々な解釈がされていますが、素直に読めば、百済の援軍にやってきた倭軍が高句麗を破って百済と新羅を臣民にしたということです。日本の軍勢が海を渡って高句麗軍と戦ったのは事実で、石碑に刻まれるくらいだから、歴史イベントとしてはすごく大きな話のはずなのですが、ドラマの中ではそのような場面はありませんでした。広開土王碑には391年の戦いのほかにも、倭との戦争の記録が刻まれています。400年には、倭軍が新羅を攻めたために高句麗が救援を送っています。『太王四神記』では5万人の軍隊を新羅救援に向かわせるという場面があったので、この史実を取り入れたのでしょう。ただし、最終回にほんの少し説明があっただけでしたが。また、404年にも倭が帯方郡に攻めてきたと記してあります。韓国人のメンタリティからして、いずれの戦いでも高句麗が倭軍を破ったのだから喜んでドラマに取り入れてもよさそうなものですが、おそらくは日本が軍隊を派遣するほど朝鮮半島に影響力があったという史実が面白くないのでしょう。ところが、後述するように古代の朝鮮半島において日本の国家的存在感は非常に大きかったのです。『日本書紀』の三韓征伐の話をはじめとして、日本に肩入れする理由のないシナの史書にも日本の影響力を示す傍証となる記事が書かれているし、『三国史記』ですら、たびたび倭が新羅に攻めてきたということが書かれています。また、百済は高句麗に屈服しては日本の武力を頼りに再び反抗するということをしていました。これらを鑑みれば、日本が朝鮮半島に一定の権益を有していたことは、歴史学的にほぼ間違いないと考えていいでしょう」と持論を主張している。 特殊効果担当米国人スタッフが大麻所持事件を起こすも、ペ・ヨンジュンのドラマなので時間が欲しいとのスタッフ側の要望に対しソウル高裁は一定の言い分があるとして判決言い渡しをドラマがほぼ完成する7月まで延期するという異例の判断を下した。 あらすじ. はるか昔、地上は火の力を持つカジン率いる虎族に支配されていた。 横暴な虎族の支配に心を痛めた神の子桓雄(ファヌン)は地上に降り立ち、人々が平和に暮らす国・チュシン国を創る。しかし、国を奪われたと感じたカジンはチュシンの民を襲う。桓雄は争いをなくすために、カジンから火の力を奪い、熊族の女戦士・セオに与える。火の力は朱雀となって、セオに宿った。やがて、桓雄とセオは恋に落ち、セオは桓雄の子(檀君)を身ごもる。密かに桓雄に憧れていたカジンはこのことに嫉妬し、セオを襲うが、戦いの中で生まれた子供を守ろうとするあまり、セオは自らの力を制御しきれなくなり、朱雀が暴走を始める。その場に駆けつけた桓雄はやむなく、青龍・白虎・玄武の三神で朱雀を倒そうとするが果たせず、自らセオを討つ。そして、桓雄は朱雀・青龍・白虎・玄武の四神を封印し、やがて真にチュシンの王となるべき人物が誕生した際に四つの神器が目覚め、王はそれらを発見して封印を解くだろうという予言を残して、天に昇った。時に紀元前15世紀の事。 それから2000年あまりが過ぎた374年、チュシンの王の誕生を示す星が輝き、高句麗の小獣林王(ソスリム王)の弟の家に談徳(タムドク)が、妹の家にホゲが生まれる。そのころ、四つの神器を独り占めして、四神の力を手に入れるべく、チュシンの王の誕生の日を待ち望んでいた虎族の末裔である火天(ファチョン)会の大長老は早速、部下を全国に派遣し、朱雀の神器を手に入れることに成功する。そして、朱雀の神器を持っていた少女・キハを連れ去り、神殿に神官見習いとして送り込む。一方、キハの妹・スジニはチュシンの末裔であるコムル村の人々に保護されていた。 小獣林王の死後、弟の故国壌王(ヤン王)が即位し、談徳は王太子となる。神殿の大神官は談徳をチュシンの王と認定し、壌王は談徳に命を狙われぬよう愚鈍なふりをするよう命じる。一方、高句麗の人々はホゲこそチュシンの王と見なしていた。その思いが特に強い、ホゲの母は、わが子に王位を継がせようと壌王の毒殺を画策する。しかし、陰謀は談徳によって見破られ、ホゲの母は自害してしまう。それ以降ホゲは談徳を憎しみ、復讐を誓う。一方、ホゲの父であるヨン・ガリョ(以下カリョ)は談徳が愚鈍ではなく、計り知れない英知を持っていることに恐怖するのだった。やがて、そんなカリョに火天会が接近していく。 そのころ、コムル村の村長となったヒョンゴはスジニを連れて旅をしながら、前村長の言いつけに従い、チュシンの王と見なされていたホゲを見守っていた。しかし、身分を隠し、市井を見て回っていた談徳と出会ったスジニはホゲよりも談徳の人柄に好意を抱く。そして、キハもまた談徳を慕うようになっていた。 カリョは、ホゲの謀略によって撃毬大会に出場できなくなったとある部族のチームに談徳が身分を隠して参加したのをとらえ、談徳の軽挙を非難し、ついにヤン王に対してホゲに王位を譲るよう迫る。しかし、壌王はこの要求を拒絶し、大神官が談徳をチュシンの王と認定したと伝え、談徳への譲位を布告する。窮地に立たされたカリョは火天会と手を組み、談徳を亡き者にせんと様々な謀略を仕掛けていく。一方、一時はキハとの平凡な生活を夢見た談徳は父の死そしてヒョンゴやスジニといったコムル村の人々の励ましによって次第に王としての自覚を身につけ成長していく。 果たして、チュシンの王となるのは談徳かホゲか。そして、朱雀以外の神器はどこにあるのか。古代の高句麗を舞台に壮大な物語が始まる。 サブタイトル. テレビドラマ. 外部リンクを参照。 舞台化. 日本の宝塚歌劇団によりミュージカル化されている。初演は2009年1月、脚本・演出は小池修一郎。
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荷電半径
荷電半径(かでんはんけい)とは、原子核の電荷の分布の平均半径のことである。核子には陽子と中性子があるが、中性子は電荷を帯びていないため、荷電半径は陽子の平均分布半径とほぼ一致する。荷電半径の語は陽子の分布の大きさを表すのにも使われる。
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クーフシュタイン
クーフシュタイン、クフシュタイン( )は、オーストリア・チロル州クーフシュタイン郡に属する都市でイン川沿いの低地イン峡谷に広がる。クーフシュタイン郡に3つある市(Stadt)のうちの一つである。ドイツ・バイエルン州と国境を接し、第二次世界大戦後、連合国救済復興機関のフランスセクターであるDPキャンプが立地していた。クーフシュタインのランドマークはクーフシュタイン要塞で、13世紀に最初の記録が残っている。 歴史. 12世紀頃にはレーゲンスブルク司教領であり、後にバイエルン公領となった。1339年皇帝ルートヴィヒ4世から自治権を、その息子、ブランデンブルク辺境伯 ルートヴィヒから年2回の市場開催権を得た。1504年皇帝マクシミリアン1世はこの都市を奪ってオーストリア領とした。 経済学者フリードリッヒ・リスト(1789年 - 1846年)は、この地に没している。 産業. ガラスメーカーのリーデルや銃器メーカーのヴォエレの他、スキー用品やラケットを製造するクナイスルがクーフシュタインを地盤としている。 交通. インスブルックからドイツ・ローゼンハイムを通過してザルツブルクやウィーンに抜けるアウトバーン12号線がクーフシュタインを経由している。鉄道ではインスブルックからローゼンハイムを経由してザルツブルクやウィーン、もしくはミュンヘンに向かう全ての列車がクーフシュタインにて停車する。
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液晶ディスプレイ
液晶ディスプレイ(えきしょうディスプレイ、liquid crystal display、LCD)は、光源等の表面に、液晶の光学特性を利用した複数のシャッターを配置し、様々なパターンでシャッターを開閉することによって図画等を表示する装置である。 概要. 液晶ディスプレイはデジタル化された電子機器の普及に伴いごく一般的な表示装置となっている。特に、数値や機器動作状態等の情報表示装置、映像などの画像表示装置として多様な電子機器において利用されている。 液晶ディスプレイには、「液晶モジュール」と呼ばれる部品が含まれており、その液晶モジュールは、主に「液晶パネル」と呼ばれる液晶を含む板状の部品と、液晶パネルに対して電気信号を供給するための駆動回路とを含んで構成されている。 液晶ディスプレイの典型例には、液晶テレビやコンピュータ・ディスプレイがある。液晶モジュールは、これら以外にも、携帯電話端末、携帯型ゲーム機、電卓、時計などの表示部として使われている。 つまり、単に「液晶ディスプレイ」と呼ばれた場合であっても、製品全体を指す場合と製品の表示部だけを指す場合がある。本記事では、便宜上、製品全体を指す場合には液晶ディスプレイと呼び、製品の表示部だけを指すには液晶モジュールや液晶パネルと呼ぶ。テレビ、PCなどの表示装置の製品としての「液晶ディスプレイ」と、携帯電話やデジタルカメラなどに組み込まれる製品の一部の部品としての「液晶パネル」と「液晶モジュール」について、それぞれを分けて記述する。また、本項目では液晶プロジェクタは扱わない。 液晶パネルの原理. 単体装置としての液晶ディスプレイは、光源、駆動回路や電源回路、接続コネクタ、ケース等を除けば主要部分が液晶パネルと呼ばれる薄い板状部品で構成されている。 電卓や時計の液晶は、あらかじめ「絵」の形に電極を配置して液晶に電圧を加える反射型の液晶が使用されることが多い。カラーの画像や映像を表示するものでは、格子状に配列したサブ画素 (Sub-pixel, sub-dot) を用いる。 表示原理. 液晶パネルは、外光や、フロントライト、バックライト等の光源により発せられた光を部分的に遮ったり透過させたりすることによって表示を行う。一般的な透過型液晶パネルを例として表示原理を説明する。 このように液晶層を表裏2枚の配向層がはさみ、さらに2枚の偏光フィルタとその外側に電極が位置する。表側の偏光フィルタを透過する光が多い場合に表示が明るくなり、少ない場合には表示は暗くなる。 こうして光学的なシャッターを実現し、このような微細なシャッター1つを1つのサブ画素とする多数のサブ画素によって望む画像を表示する。このシャッターは光の透過と遮断だけを行うので多様な色は、概ね3原色を備えた色フィルタで実現される。 表示モード. 2枚の電極に挟まれた各画素での表示には偏光フィルムの配置方向に応じて、2種の表示モードが存在する。 液晶パネルの構造. 液晶パネルは、大きくは表裏2枚の基板とその間の液晶材料から構成される。 液晶パネル(表面より順に示す。カッコ内は厚みの例) 上記に加えて基板の周囲に「封止剤」が使われる。 液晶パネルは、油状の透明な液晶組成物(液晶材料)が2枚の透明な基板の間にサンドイッチされ、周囲が封止剤によってシールされていて、液晶材料が漏れ出すことなくまた液晶材料が清浄に保たれるようになっている。セルギャップという基板同士の間隔を一定に保つためのスペーサやギャップ材として、粒の大きさが揃ったプラスチック球が少しだけ液晶層に散布されていたり、カラーフィルタ基板に柱状のスペーサが作り込まれている。カラーフィルタ基板よりもアレイ基板の方が周囲の接続端子などの分だけ大きくなる。 2枚の基板は表側にカラーフィルタ基板、裏側にアレイ基板が配置される。アレイ基板は液晶側にTFTなどのアクティブ素子とサブ画素となる電極がアレイ(配列)状に作り込まれている。カラーフィルタ基板の液晶側には、ブラック・マトリックス (BM) やR(赤)、G(緑)、B(青)というカラーフィルタを配列し、さらに透明電極による共通電極またはコモン電極と呼ばれるものが基板全面に作られる。これらの基板は光をできるだけ無駄なく透過させるために、ガラス基板が用いられることが多い。耐衝撃性、フレキシブル性などの点からプラスチック基板を用いることもある。透明電極の材料としては、電気抵抗が低くパターン加工の容易なインジウムとスズの酸化物であるITO (Indium-tin-oxide) が広く用いられている。また、透明電極に印加される電圧は、アレイ基板ではTFTなどのアクティブ素子を通じて外部から印加されるが、外部からサブ画素までの配線として金属配線もアレイ基板の内面に配置されている。アレイ基板の端部には、配線電極の接続部が露出しており、ここに駆動回路が接続されて電気的に実装される。表裏2面の透明電極のそれぞれの内側には、ポリイミド材料の配向膜が配置されて、液晶材料を所望の配向状態になるようにしている。 液晶パネルでは、液晶を封入した表裏の透明基板のさらに外側に、1組の偏光フィルタ(偏光板、Polarizer)を設ける形式が主流である。透過型の液晶パネルでは、裏側の光源(バックライト)から出た光は、光源⇒偏光フィルタ⇒アレイ基板⇒サブ画素の透明電極⇒配向膜⇒液晶⇒配向膜⇒共通透明電極⇒カラーフィルタ基板⇒偏光フィルタ、という順に各要素を通過して観察者の目に届く。ごく安価な表示用途で使われる簡易な反射型の液晶パネルでは、散乱性の反射板を液晶パネルの背面(裏面)に配置してそれ自体には光源を設けず、周囲の光(外光)によって表示する。 アレイ基板からカラーフィルタ基板の共通電極へ接続するのはトランスファ (Transfer) と呼ばれ、またこの接続材はコモン転移材 (Common transfer material) と呼ばれ、一般に銀ペーストやカーボン・ペーストといった導電ペーストが使用される。 実際の製品ではこういった基本構造の他にも、視野角特性を改良するための光学フィルム(視野角補償フィルム)などが偏光フィルタとガラス基板との間に追加して挿入される場合がある。また、バックライトシステムの一部にも、視野角や輝度を向上させるための光学フィルム(輝度上昇フィルム)を用いる場合もある。 カラーフィルタ. カラーフィルタは、サブ画素に対応させて、赤色 (R)・緑色 (G)・青色 (B) の光を透過させる着色層やブラック・マトリックス (BM) を基板上に配置し、保護膜で覆ったものである。この着色層は、液晶をはさむ2枚の基板の表側のカラーフィルタ基板に微細パターンで塗り付けられる「着色材」、又は「着色膜」であり、顔料系、又は染色料系のものが用いられる。BM層によって黒色表示時の光漏れと隣り合う着色材同士の混色を防ぎ、TFTへの光照射による光電流の発生も防止する。着色材の定着に感光材を用いるものは、着色材に混ぜられてそのまま定着する。0.1μm程の薄いBM層は金属クロムが多く、他にもカーボン、チタン、ニッケルの使用が試みられている。BM層の間には1.2μm程のBM層よりは厚みのある3色の着色層が一定のパターンで配置される。高精細の画面では着色層のパターンはストライプ配置が多いが、低精細度の画面ではデルタ配置が良好な画質の印象となる。 カラーフィルタは色素の吸収を利用して各サブ画素の通過光をR、G、Bの3つの基本色にして、加法混合方式で混色を作り出すことで中間色を含むカラー表示が実現する。各サブ画素の印加電圧を制御して画素ごとの混色による発色が可能になり、透過光を遮ることで黒を表現する。これがカラー液晶パネルの仕組みである。 カラーフィルタには高色純度と高透過性、耐光性や耐熱性、耐薬品性、平滑性、加工寸法の精度が求められる。180℃で1時間といった配向膜の焼成工程や低抵抗性ITOの成膜工程等での高温に耐える必要がある。同じく配向膜やITOの加工中での溶剤や洗浄剤に対する耐性が求められる。突起などがあるとセルギャップが一定に保てず、表示品質が悪くなる。カラーフィルタだけでも光の70%程度が失われて主に熱となり、残る約30%だけが通過できる。 液晶パネルの基本的な駆動方式. 簡易な表示で済む電卓の表示部のようなものを除けば、多数のサブ画素を格子状に配列したドットマトリクスによる表示が液晶パネルの主流となっており、これによって変化に富んだ画像表示が行える。ドットマトリクス表示の多数のサブ画素ごとの電極に個別の配線を行うと、基板周縁部は配線で埋まり現実的ではなくなることから、縦横の2次元的な配線の交点でサブ画素の電極を制御するマトリクス配線方式が採られている。マトリクス配線では、基本的に液晶パネル外との配線数が縦線と横線の合計数で済む。 マトリクス配線で使用される2種類の信号線を以下に示す。 マトリクス配線には「単純マトリクス駆動方式」と「アクティブ・マトリクス駆動方式」がある。 TFT等のアクティブ素子を用いる液晶パネルは、1990年代末頃から生産技術の発展とともに低価格化し、2000年代に入ると高品質の表示が必要なテレビ受像機やコンピュータ・モニタ、携帯電話の表示部として広く普及しており、STN型の単純マトリクスを使った液晶パネルは減少傾向にある。 TFTを構成する半導体の組成には、普及したアモルファス・シリコンと、開発が進んで実用化段階にあるポリ・シリコンがある。画面サイズの比較的小さな液晶パネルでは、開口率を上げるために絶縁膜を挟んで隣のゲート線上との間にコンデンサを作る「付加容量型」が多い。 液晶パネルの駆動技術. ここでは一般的なアクティブ・マトリクス駆動方式の中でも、実用とされている駆動技術の代表的なものについて説明する。液晶分子が移動・回転する速度は、一般的には印加された電圧の二乗に比例するため、高速で表示を変えるためには印加電圧を高くする必要がある。 フレーム反転方式. 液晶表示では直流駆動すると寿命が短くなるため、交流電圧を加えることで駆動する交流電圧駆動が行われている。この交流の印加方式にいくつか種類があるが、いずれもフレームごとに反転させる。 分割駆動. 画面が高精細となりサブ画素数が増えると動画表示のためにはXドライバの駆動周波数が100MHzを超えて一般的なICでは動作速度が満たせなくなる。このため、画面を例えば4分割するなどして駆動周波数を抑える工夫を行うのが普通であり、これを分割駆動 (Multiplexing drive) という。分割によってOLB (Outer Lead Bonding) による接続とデータドライバ / アドレスドライバ用ICは増えるが、高い周波数での設計は避けられる。例えば、3,200×2,400画素のQUXGAでは駆動周波数が575MHzとなって普通のICでは対応できなくなる。これを4画面にすれば約72MHzに低減できる。分割駆動では、XとYのドライバ(データドライバとアドレスドライバ)のICモジュールとそれらとの接続を増やすだけでなくタイミング・コントローラも対応しなければならない。画面を複数の領域に分けた分割駆動とすることで、一般的な半導体技術で作られた駆動ICを使用しながら画素数の増加を可能にした。 共通電極の電位差. フレーム反転方式での液晶駆動では、カラーフィルタ基板側の透明電極である共通電極(コモン電極、対向電極)の電位の掛け方の違いで2方式に分けられる。 ブラック挿入法. 動きの激しい動画表示では、移動する物体の輪郭部が不鮮明に見えることがある。これは液晶画素が印加電圧を一定に保つホールド型駆動で構成されているために起こるが、これを避けるために、1つのフレーム内で画面を一度、全面真っ暗にすることで印加電圧をフレームごとに独立にするインパルス型駆動にする方法を採る。これがブラック挿入法である。液晶の表示時間は短くなり高い応答速度も求められ駆動データも高速化が必要だが、動くものの表示が鮮明にできる。 オーバードライブ. 画素の明暗が急速に変化する場合に、液晶分子の動きが遅いために追従できないことがある。この場合に印加電圧を変化初期の短時間だけ10-20%程度大きめや小さめのプリエンファシス信号として与えることで液晶分子を早く駆動することができる。液晶の反応速度は印加電圧の2乗に反比例するので波形の立ち上がりと立下りだけ電圧を振ることで早い応答が得られる。 バックライト点滅法. ブラック挿入法と同様に動く物体の表示を鮮明にするために、走査のタイミングを合わせてバックライトを消灯する。 倍速駆動. 倍速駆動や120Hz駆動と呼ばれる液晶パネルの駆動方式では、ほとんどの場合、毎秒60枚のフレームを表示していたものを120枚表示することを指す。表示枚数を増やすことによって激しい動きを伴う動画での残像感を小さくしようというものである。1秒間に60枚あった元の画像の間に、前後の画像情報から中間の画像を作り出して合わせて120枚にされる。4倍速の製品も登場している。 ショートリング. ショートリング (Short ring) は静電気破壊からパネルを保護する回路技術である。アレイ基板とカラーフィルタ基板はそのままでは大きなコンデンサとして働いて、人体などの静電気を蓄えて内部回路のTFT素子をショートさせる恐れがある。これを防ぐために、データ信号/アドレス信号の接続パッドごとに薄膜トランジスタ相当を抵抗として接続して、もう一方を共通接続する。このような抵抗を「作りこみ抵抗」や「負荷抵抗」と呼ぶ。 液晶パネルの種類(単純マトリクス駆動). 単純マトリクス駆動による液晶パネルには、以下の方式がある。 TN型. TN型(Twisted Nematic型、ねじれネマティック型)は初期に量産された最も基本的であり、2010年現在でも主流の表示方式である。 この方式では、電圧が無印加の状態でネマティック液晶と呼ばれる液晶分子の配向を90度ねじれるように配列している。表裏2枚の基板間で90度ねじれるように、各基板表面の配向膜に配向処理が施される。このねじれによって液晶を通過する光の偏光成分がほぼ90度回転する。これは旋光と呼ばれる現象である。また、正しく電圧が印加されると、分極している液晶分子は電界方向、つまり画面に垂直方向に揃って並び、光は偏光変換を受けずに液晶層を通過するため、光源側の偏光フィルムを透過した光の偏光状態がそのまま保たれて逆側の偏光フィルムにそのまま届くようになる。 STN型. STN (Super Twisted Nematic) 型は、単純マトリクス駆動方式での代表的な形式であり、現在でも比較的簡易な表示装置では使用されている。TN型が無印加時において液晶分子の並びのねじれ角が、両面の基板の間で90度であるのに対し、STN型では、180-270度となるように作製される。これにより印加電圧の僅かな差によって大きな配向変化を実現し、TN型では難しいハイデューティでの単純マトリクス駆動を可能にする。このため、TFT等のアクティブ素子を用いずに画素数の多い表示が可能となっている。TN型と同様にNBモードとNWモードがあり、NBモードでは黒と黄色、NWモードでは白と青の表示になる。初期のSTN型では光の波長によって明暗が一致せず、着色が避けられなかったため、いくつかの派生型が開発された。 STN型の派生型には以下のものがある。 液晶パネルの種類(アクティブ・マトリクス駆動). アクティブ・マトリクス駆動による液晶パネルには、以下の方式がある。 TN型. 単純マトリクス駆動と同様に、アクティブ・マトリクス駆動と組み合わせても多く利用されている。生産技術が確立され比較的安価である。また、特別な工夫をしなくても高い開口率が得られるため表示が明るくなり、同じ表示輝度であればバックライトの消費電力を削減できる。応答速度も8-15ms程度とそれほど遅くはない。短所は、視野角が狭く色度変位が大きい。画質よりコストや低消費電力を重視する用途に用いられる。2000年代頃までは廉価なノートパソコン向けであったが、2010年頃からは画質も向上し、ほとんどのノートパソコンでTN型となっている。また、視野角の狭さが簡易なプライバシーフィルターの効果を持つことから、上位機種でも積極的に採用するメーカーもある。 IPS型. IPS型(In-Plane Switching型、インプレイン・スイッチング型)では、電極は一方の基板の面内方向に配置している。電圧を無印加の状態では液晶分子はねじれずに基板面に対して一定の水平方向を向いている。電圧の印加時には電界が面内方向に掛かるたて液晶分子が90度水平に回って電極に沿って並ぶ。無印加と印加で液晶分子が面内方向で90度回ることで、2枚の偏光フィルムとの間で透過、遮蔽を作り出す。液晶分子同士が並んだままで回転できるため反応が速く、特に中間調の応答が良い。見る角度にあまり影響されず視野角が広いという特徴がある。回転は、電極をくし型に配置することで実現されるため、半導体技術を用いるアクティブ・マトリクス駆動でのみ用いられる。液晶配向が基板に対して垂直方向に立ち上がることがないため、視野角が広い。視野角特性が良好なためTV用途で多く用いられるが、反面、開口率を上げにくく表示が暗くなり易い、正面表示でのコントラストを高めにくいといった課題もある。 VA型. VA型(Vertical Alignment型、 垂直配向型)では、負の誘電率異方性を持った液晶分子と垂直配向膜との組み合せで、無印加時には液晶分子が画面に対して垂直になり、印加時には液晶分子が画面に対して水平な配置となる。見る角度にかかわらず比較的良好な視野角と高いコントラストが得られる。8-15ms程度の応答速度になる。 OCB型. OCB (Optically Compensated Bend, Optically Compensated Birefringence) 型は、無電界時には液晶が弓状に配列し、電圧印加時にはほぼ直線状に並ぶ。弓状から直線状に変化することで発生する液晶の流れと液晶分子の配向の変化が互いを阻害することがなく配向の変化が液晶の流れを加速するように働くため3-8msといった高速応答性を持つ。光学補償フィルムを必要とする。視野角も広く、-20℃といった低温環境でも応答性がそれほど損なわれないがまだコストに課題があり、放送機器用や車載用での採用が多く、大画面は存在しない。 材料. 液晶材料. 液晶分子は直径が0.4nm、長さが2nm程度の細長い有機分子である。 マザーガラス. マザーガラスはマザーガラス基板とも呼ばれ、アレイ基板やカラーフィルタ基板の元となる素材である。これらの基板上に成膜するプロセスでは生産性向上のためにマザーガラスを切らずにそのままの大きさで製造工程を進め、終わりに近い工程で各基板ごとの大きさに切断してゆく。マザーガラスは以後の工程で障害とならないように、反り、塵、汚れ、傷、泡、欠けがないように求められる。 1枚のマザーガラスから取れる基板数は「面取り数」と呼ばれ、面取り数を増やすためにマザーガラスは拡大されてきた。マザーガラスの大きさとその月間や年間の処理可能枚数で、液晶ディスプレイ工場の生産能力が表現される。 マザーガラスは、主にその表面に構築される電極や回路の処理工程の最高温度によって使用できる種類が限定される。STN型のような単純マトリックス駆動では低価格のソーダガラスが使用できるが、TFT型のようなアクティブ・マトリックス駆動では高温処理が求められるため、高温ポリシリコン処理での1,000℃以上に耐えられる高価な石英ガラスや低温ポリシリコンでの600℃弱まで耐える無アルカリガラスが使用される。 ガラス厚も薄くなっており、カラーTFT液晶ディスプレイの開発当初は1.1mmであったものが0.7mmになり、特にノートパソコン用などでは0.63mmから0.6mmとなり、携帯電話用では0.4mmの製品が出ている。 配向膜. 配向膜にはポリイミドが使われることが多い。可溶性を高めるためのN-メチル-2-ピロリドン (NMP) などのアミド系極性溶媒と塗布性を高めるためのセロソルブアセテートなどの溶媒にポリアミック酸を溶解させたものが使用される。これを基板に塗布後、250℃以上に加熱処理してポリアミック酸を熱重合によりイミド化させて配向膜を形成する。基板上で熱重合するのではなくあらかじめ液体状態でイミド化させた可溶性ポリイミドも使用される。可溶性ポリイミドを使えば、基板上への塗布後の加熱温度が180℃以下となり、乾燥させる程度の処理となる。このため、加熱温度を高められないカラーフィルタ基板を用いる場合の配向膜として都合が良い。ポリイミド製の配向膜は、材質を選べば透明であり、300℃程度にも耐える高い耐熱性があり、液晶の配向を安定させることが可能であり、ガラス基板や電極膜への塗布性や密着性が良いという特徴がある。 偏光フィルム. 偏光フィルムは、一般的な透過型パネル用では、偏光素子が入った偏光基材とこれを両面で挟むベース基板、そして片面には保護フィルムともう片面にはガラス基板に貼り付けるための離型フィルムから構成される。反射型パネルの裏面用は保護フィルムの代わりに粘着層を介して反射板が付けられる。 偏光フィルムは偏光板とも呼ばれるが「板」のような堅いものではなく、多ければ10層ほど積層されても0.12-0.4mm程度の薄いものであり、液晶パネルへ貼り付けられるまではテープ状に巻かれている。偏光素子が入った偏光基材とは、ヨウ素や二色性染料が偏光素子でありこれが偏光効果を起こす。偏光基材はポリビニルアルコール (PVA, Poly Vinyle Alcohol) が使われ、偏光素子がこの媒体内に含まれる。偏光基材を保護する役割のベース基板にはトリアセチルセルロース (TAC, Triacetyl cellulose, Cellulose triacetate) が使われる。ベース基板も「板」と呼ばれるがフィルムである。離型フィルムにはベース基板側に粘着層が塗布されており、ガラス基板に貼り付ける段階で剥離され、粘着層によってガラス基板に貼り付けられる。 偏光フィルムの単体での光学特性は、透過軸方向に平行方向の透過率:T1 と透過軸方向に直交方向の透過率:T2で表され、T1 は"1"に近く、T2は"0"に近くなるように偏光素子や偏光基材が調整される。1枚の偏光フィルムの単体透過率は T で表され、T1 とT2の平均で表される。 2枚使用時の光学特性は、透過軸方向が互いに平行な平行透過率:Tformula_1と透過軸方向が互いに直交な直交透過率:Tformula_2があり、平行透過率:Tformula_1はT2とT1のそれぞれの2乗の和の平均で、直交透過率:Tformula_2はT2とT1の積で表される。 また、偏光度 P は以下の式で表される。 実際の製品として使われている偏光フィルムでは、単体透過率 T は38-48%程度、偏光度 P は75-99.9%程度である。可視光領域で透過率と偏光度が波長によって差があると液晶パネルにすると色付きするので、これらの特性に波長依存性がないことが求められる。 透明電極. 2009年現在一般には、透明電極としてITO (Indium-tin-oxide) が使用されているが、ITOは塗布後の定着工程で200-300℃程度の比較的低い温度で半結晶化されるため抵抗値が高く、また透過度も波長の短い光線では低くなるために完全な透明ではなく少し茶色や黄色がかった色味を持つ。インジウムが中国に偏在するレアメタルであり、電子機器による需要増で価格が高騰している。 ITOに代わるものとして、ZnO膜や金の微細な繊維を配合した高分子膜の研究が進められて成果が上がっており、早ければ数年の内には製品への採用が始まるとされている。 液晶モジュールの構造. 液晶モジュールは、主な構成部品として液晶パネルに駆動回路と駆動用プリント基板、必要ならばバックライトを取り付けたものである。駆動用プリント基板類は液晶パネルとの接続部が柔軟なため、パネルの裏側に折り込まれて無用な実装面積を省くのが普通である。また、駆動回路の主要部を低温ポリシリコンによるTFT回路で液晶パネル上に取り込むことで、液晶パネルへの接続は、電源部やタイミング・コントローラ回路、最低限の映像信号回路などを載せた小型のプリント基板だけになり、不良の原因となる接続部の大幅な削減によって液晶モジュールの信頼性の向上が実現できるが、額縁スペースが余分に必要となる。 液晶モジュールの駆動. 説明を簡単にするため、TFTカラー液晶モジュールでの駆動例を示す。以下の周辺回路の多くは、TABによってアレイ基板に接続されるか、COGや低温ポリシリコンによってアレイ基板上に実装または構築される。低温ポリシリコンを採用している場合でもタイミング・コントローラや電源回路は、ポリシリコンによるTFT素子でD/Aコンバータ、メモリ、コントローラまで作り込むと消費電力が増すために、外付け回路基板上の専用ICが使用される事が多い。 製造工程. まず製造工程の概要を示したのちに、詳しい説明を加える。 工程概要. 各工程の最後や出荷前にそれぞれ検査が行われる。 液晶パネルの製造. アレイ基板の製造工程の各段階中と工程の最後に検査が行われる。アレイ基板として使用されないマザーガラス上の空き領域にあらかじめテスト用回路を作り込んでおき、膜厚、膜質、電気的特性を計測するという手法も使われる。 ディスプレイ装置. 画面. 画面の大きさは21世紀以降急速に拡大している。アスペクト比は、テレビ用では4:3や16:9のアスペクト比を考慮しており、パソコン用もほとんどはテレビと同様の比率を考慮して作られている。 表示する画面部分は「有効表示領域」や「表示領域」、「アクティブ領域」と呼ばれ、周囲は「額縁」と呼ばれる。この有効表示領域の大きさは画面の対角線の長さをインチで表し、日本では数詞として「型」を付けて表現される。一般に画像の精細度を表すには、1インチ (25.4mm) 当り何個のドットがあるかという意味で "dpi" (dot per inch) を使うことが多いが、カラー液晶では "RGB" 3色の点で1つの画素 (pixel) を構成するため無用な混乱を避ける意味で "ppi" (pixel per inch) が使われることが多い。精細度を表す別の方法として「画素ピッチ」がある。画素ピッチは画素が並ぶ間隔を表しており、例えば1,000ppiでは0.0254mmになる。TV画面の水平解像度では「TV本」という解像度の表し方もあり、白地に縦に引いた黒い線を最大何本まで判別できるかというもので、普通のTVでは350TV本である。 ブラウン管式ディスプレイでも、液晶ディスプレイと同様に画面の対角線の長さをインチで表した「○○型」と表記していたが、米国では液晶ディスプレイと同じく有効表示領域の大きさを計っていたのに対して日本ではガラス管の外側の大きさを表していたので、実際に表示される領域は1-2インチ程度小さかった。 画素. 液晶ディスプレイでの画素(ピクセル、Pixel)は、"RGB" を合わせて1画素と数えて、R、G、Bのそれぞれは「サブ画素」や「サブ・ドット」と呼ばれる。カラー液晶ではサブ画素ごとに輝度を制御しており画素ごとではない。画素とサブ画素を混同しないように注意が求められる。 「ドット抜け」といった画素単位やサブ画素単位での不良は数個まで許容されるが、2013年現在では従来に比べて製造現場での環境整備が進み、ドット単位での不良はほとんどなくなる傾向にある。 安全性. 安全性に関して留意すべきは、バックライトに冷陰極線管 (CCFL) を使用しているものでは、1,000V以上の高電圧を生じているので感電事故を起こさないように不用意にバックライトの電源部を触らないことである。陰極線管内には水銀が含まれるので、電気接続に使われるハンダの鉛やBM層のクロムと同様に人体には有毒であり、環境中にも放出されないよう留意する必要がある。液晶自身の毒性については, 急性経口毒性の指標であるLD50で表現するとほとんどが2,000以上であり、皮膚刺激性や吸入毒性でも「毒物および劇物取締り法」に抵触しない程度には基準を満たしているため、比較的安全であると考えられる。 歴史. 1888年オーストリアのF.ライニッツァー (Reinitzer) らにより、コレステロールと安息香酸のエステル化合物からなる結晶を加熱することで液体状となるサーモトロピック液晶が発見された。1964年には米国で最初の液晶表示装置が考案され、1968年には米RCA社のハイルマイヤー (R. Heilmeir) 達の手で最初のネマティック液晶を使用した表示装置が作られた。これ以降、多様な装置が作られたがいずれもモノクロのものであった。1973年には日本で電池駆動可能な電卓の表示装置として採用された。しばらくはTN型による低消費電力で薄く小型のものが主体となって、電卓や腕時計、ワープロ、電子手帳、携帯型ゲーム機など、そのころ登場しはじめたデジタル機器の表示部として普及した。また1976年には英国ハル大学のグレイ教授が安定な液晶材料(ビフェニール系)を発見し、それは現在のLCD材料の基礎となっている。1983年には日本のエプソンから世界最初のTFT型液晶カラーテレビ「ET-10」が発表され、翌年に発売された。1988年には14型のTFT型液晶カラーTVが発表された。 1990年代になるとそれまでのセグメント表示からドット・マトリクス表示に、モノクロ表示からカラー表示に変わり、TFTによるアクティブ・マトリクス駆動によって高精細な表示が可能になった。1990年代半ばに低温ポリシリコンによるTFT層が実用化された。用途も静止画だけのスチルカメラの表示部のようなものから、動画が扱えるデジタルビデオカメラの表示部へと広がり、ノートパソコンの表示や小型テレビ、カーナビへと広がった。20世紀末ごろにはブラウン管TVを駆逐する勢いで、大型平面TVでの採用が大きな広がりを見せてきた。1990年代に日本メーカーのそれまでの基礎研究や技術開発の実用化・製品化が進み、世界市場を開拓していった。1990年代半ばに韓国メーカーが、1990年代後半には台湾メーカーが世界市場に本格的に参入してきた。 2000年代になると、小型の表示器としては携帯電話やPDA、携帯音楽プレーヤー等の多様な携帯型電子機器に使用されるようになり、大型では大画面TVや普及型TVなど、広くTV用途で採用されている。2000年代には中国メーカーが世界市場に本格的に参入してきた。 産業. 液晶ディスプレイに関係する産業には以下の会社群がある。 上記での液晶原材料とは、液晶材、配向膜、ターゲット材などがあり、液晶部材とはカラーフィルタ、偏光板、マザーガラスがある。 液晶パネルメーカーは液晶ディスプレイメーカーに対して液晶パネルを部品として供給するメーカーを指し、液晶ディスプレイメーカーは自社で液晶パネルを内製するものと社外から購入するものの両者を含む。液晶ディスプレイメーカーの中には内製した液晶パネルを外販する会社もある。液晶部材から半導体、液晶パネルを含めて内製する垂直統合型の液晶ディスプレイメーカーとして、韓国のサムスン電子、LGフィリップスと、日本のシャープ、パナソニック、ソニー、日立、東芝がある。欧州と台湾では水平分業型の専業メーカーがいくつかある。 液晶ディスプレイ産業は国際的な市場に向けた世界規模での開発・生産・販売が行われているが、生産拠点は比較的アジアに集中しており、また液晶部材の中でもマザーガラスのように巨大化を遂げた部品では長距離輸送に向かないため、地域的な偏在性を生む要因となっている。 液晶ディスプレイ産業は、特に大画面TVでの需要が急速に立ち上がっていることもあり、産業の中心は大型パネルの生産に比重が移っている。こういった大型パネルの生産では大きな設備投資が求められる割りに生産設備の陳腐化速度が速く、新たな技術の採用によって生産コスト削減や製品性能が大きく向上するなど、半導体産業に似た特徴を備えている。半導体産業での「シリコンサイクル」と同様に液晶ディスプレイ産業では「クリスタルサイクル」と呼ばれる需給バランスの長期的な変動を繰り返す傾向がある。また、中サイズのパネルではノートパソコンに組み込まれ、小画面パネルでは携帯機器や家庭電化製品、産業用機器などの広範な電気製品に対して組み込むために、多くが外販され一部が社内の別部署での機器生産に使用される。 液晶ディスプレイメーカーの各社は同業同士での競争だけでなく、プラズマディスプレイや有機ELのような似た用途のディスプレイ技術へも競争が求められる。また、多くのメーカーは液晶技術だけに固執せずに新たな次世代ディスプレイ技術への模索も続けている。 経済規模. 2009年1月の10型以上のTFT液晶パネルの世界売上高が25億米ドルだったと発表した。これは前月2008年12月から10.7%減であり、前年同期比では63.3%も減ったことになる。枚数で云えば、2,380万枚であり、これは前月2008年12月から12.4%減、前年同期比では33.5%減ったことになる。 メーカー別の売上高シェアでは、1位が韓国サムスン電子 (Samsung Electronics) 社の27.9%、2位が韓国LG電子系列のLG Display社が27.8%だった。出荷枚数別では、1位がLG Display社が26.4%で逆転し、2位はサムスン電子の26.0%、3位が台湾奇美電子 (Chi Mei Optoelectronics) 社で13.8%だった。 表示素子としての特徴. 液晶パネルには、形状的な特徴、電気的な特徴、並びに、光学的な特徴および構成部品数などの面で他の表示装置とは異なる特徴がある。 形状的な特徴. 液晶パネルの形状的な最大の特徴は、薄型である点である。ガラス2枚と偏光フィルタ2枚、必要に応じてバックライトによって表示が行えるため、非常に広汎な製品に応用されている。 電気的な特徴. また、液晶パネルの電気的な面での最大の特徴は、液晶パネルそれ自体の電力消費が非常に小さいことである。数ボルト程度の電圧によって表示が書き換わり、電流はほとんど流れないためである。このため、ロジック系ICによって容易に駆動が可能であるなどの特徴から、用途の制限が少ない。ただし、液晶パネルの液晶部分は通常は交流駆動する必要があり、表示内容を書き換えなくても極性反転のために充放電電流が消費される。また、液晶パネルは自発光しないため、照明を設ける場合には、照明のために消費電力が大きくなるという課題がある。ただしこれはLEDなどにおいてある程度は低減できる。 光学的な特徴. 液晶ディスプレイの光学面での最大の特徴は、液晶それ自体が発光しないことである。表示には、バックライト、フロントライト、外光などの光源を必要とする。液晶ディスプレイでは、白色光のバックライトにカラーフィルタを用いた液晶パネルを組み合わせるカラー表示が主流である。 パネル/モジュール/ディスプレイの技術的課題. 液晶パネルは、様々な利点を有する一方、表示原理に起因する技術課題(欠点)も有している。 多様な技術. 液晶ディスプレイが多様な用途をカバーしてきた背景には、要求される光学的機能を実現するために、数多くの構成部品を組み合わせて液晶ディスプレイ自体が構成されてきた点を挙げることができる。 構成部品. 液晶ディスプレイは、多数の構成部品により構成される。この構成部品の多さのために、細かな需要に合せた多様なバリエーションが生み出されている。そればかりか、この構成部品の多様さは、液晶ディスプレイの性能の進歩に大きく寄与してきた。液晶パネルの液晶部分に全く変更がなくても全体性能の改良が実現されるからである。一例として、透過型液晶ディスプレイの構成部品であるバックライトを挙げると、バックライトの光源の進歩により、色再現範囲(色域、color gamut)が大幅に改善されたり、消費電力が低下するといった性能改善が実現される。このように、液晶そのものの改良がなくとも、構成部品の技術進歩が液晶ディスプレイの進歩に取り込まれている。 構成部品により変わる表示特性. また、液晶ディスプレイを構成する部品を選択することによって表示特性を用途に適合させることも行なわれている。その典型例が、光沢(グレア)表示とノングレア(つや消し・マット)表示の選択である。この選択は、液晶ディスプレイの最もユーザー側に位置する部品(通常は偏光フィルム)の表面処理によって決定される。つまり、平滑な面を持ち光沢のある表面処理の偏光フィルムを採用すると光沢表示となり、散乱のある表面処理の偏光フィルムを採用するとノングレア表示となる。よって、写真画像や動画の鑑賞目的のために、色純度やコントラストの感覚的な品位を高めることができる光沢画面と、事務処理用に適する映り込みの少ないノングレア画面との用途別の作り分けが、偏光フィルムの選択のみにより行える。 光学的機能の多様性. 液晶パネルは、透過型液晶パネル、反射型液晶パネル、プロジェクター、フィールドシーケンシャルカラー表示、半透過型液晶ディスプレイといったさまざまな表示方式が実用化または創出されており、非常に柔軟な光学的構成で用いられ、構成部品の改良が技術的進歩に寄与している。 液晶パネルの光学的機能の多様性の一例を挙げるなら、液晶パネルでは、外光を利用することにより照明を設けずに低消費電力の表示を行うことも可能であるし、必要に応じて照明を設けて、自発光型の表示装置と類似の用途に用いることもできる点が好例である。それ自体が発光することはないため、光源との組合せの数だけ光学的機能にも多様性が生まれている。 液晶パネルに照明を設けない場合には、外光を反射板で反射させて往復で表示を行うことが多い(反射型液晶パネル)。反射型液晶パネルでは、多くの場合に裏側の偏光板の背面に適当な凹凸をもった金属などの反射板を配置する方式(セル外反射板方式)が主流で、安価な液晶表示部で背景が薄緑、表示が変化する部分がこの背景色と黒色との間で変化するものは主にこの方式である。一部には、裏面側には偏光板を設けず、液晶層の裏側の基板の液晶層側反射板を配置して、液晶層と反射板を近接させ手配置する方式(セル内反射板方式)も実用化されている。この場合、一枚の表側の偏光板にフィルム位相差板が併用され、液晶層を往復する光の偏光を制御することが多い。 また、液晶パネルに照明を設ける場合には、EL(エレクトロ・ルミネッセンス)、冷陰極管、発光ダイオードなどの光源によって背面から照明するバックライトによる透過光を観察する透過型液晶パネルや、表示面側からフロントライトと呼ばれる照明装置により照明して反射光を観察するフロントライト付き反射型液晶パネルがある。照明を設けるのは、多くの場合、カラー表示を行うカラーフィルタの吸収のために表示が暗くなる場合である。 そして、照明を設ける液晶パネルと、照明を用いない液晶パネルとの組み合わせるようなもの、つまり、透過型と反射型を組み合わせることにより、外光を反射しつつ、バックライトの照明も利用する半透過型液晶パネルもしくは半(微)反射型液晶パネルと呼ばれるものもある。これにより、夜間の周囲が暗いときから日中の直射日光下まで表示内容が確認できるパネルが開発できるため、家庭用ビデオカメラ、ディジタルスチルカメラなどに利用されている。このように、発光ディスプレイに近い照明を用いた表示と外光を利用した反射ディスプレイとしての表示を1つの表示パネルで両立するものは液晶以外の表示方式では知られておらず、液晶パネルに用いることができる光学的機能の多様性を示す好例といえる。 強誘電性液晶・反強誘電性液晶. 強誘電性液晶. 誘電体である液晶物質は誘電分極という性質を持つ。スメクテック液晶でキラリティを持つ種類の物質は、長軸周りの分子回転の動きが束縛されるため永久双極子が並んだ状態となって電界がなくともが自発分極を起こす強誘電性を示すことがある。この代表的なものが、カイラル・スメクテックC相(又はキラル・スメクテックC相)と呼ばれる液晶である。 カイラル・スメクテックC相の液晶は通常は螺旋をとるが、2枚の基板間隔が縮められ螺旋ピッチ以下にまで狭くなると、螺旋構造がとれなくなり特定の2つの向きにのみダイレクタが揃う配列が許されるようになる。 このようなカイラル・スメクテックC相の液晶の層を1-2マイクロメートルの狭い幅の2枚の平行な電極基板で挟み込むと、正、又は負の電圧を電極間に加えることですべてのダイレクタの方向を揃えられ、さらに熱的揺らぎによっても容易には逆の方向まで変化しないので、電圧を加えなくとも配列状態が維持でき、無電力で表示が保存できる。 このような構造の液晶表示を表面安定化強誘電性液晶 (Surface Stabilized Ferroelectric Liquid Crystal, SSFLC) と呼び、一時期は実用化が進められたが、動作原理上、光の透過度で中間値が作れないことや狭い液晶層を大画面で作るのが容易ではなく、あまり利用は進まなかった。ただし、応答速度が他方式より2-3桁も早く、電界を切っても配列状態が残るので、フィールドシーケンシャルカラー表示や電子ペーパーとしての用途が見出されている。 反強誘電性液晶. 強誘電性液晶は明状態と暗状態のそれぞれにするためには特定の極性電圧を加える必要があり、これは直流駆動(DC駆動)しか許されないことになる。直流駆動では画質の低下が避けられないので、できれば交流駆動(AC駆動)が望まれた。 2枚の基板間隔が広がり、螺旋構造が復活しても自発分極は層ごとで互いに打ち消しあって外部には現れず、無電界ではダイレクタが層ごとに交互に異なる向きに並んでいる。2枚の偏光フィルムを直交で用い、1枚の偏光軸を片方のダイレクタに合わせると、無電界ではほとんど遮蔽されるが、電極の電圧を正でも負でも加えると光が通るようになる。 しきい値以上の正電圧ですべての層で1方向にダイレクタが揃い、正と負の領域でのしきい値以下の電圧で層ごとに交互に1方向ずつ異なる無形にダイレクタが揃い、しきい値以上の負電圧ですべての層で正電圧とは逆向きの1方向にダイレクタが揃う。これら3つの他に中間の状態は取れないので反応が早い。 また、これまでの強誘電性液晶や反強誘電性液晶ではヒステリシス特性があったが、中間調表示が可能な無しきい値反強誘電性液晶 (Threshold-less Anti-Ferroelectric Liquid Crystal, TL-AFLC) が開発されている。 反射型と半透過型. 反射型は液晶が表示器として使用され始めた頃からの比較的古い技術である。外光を反射することで表示を行う反射型液晶表示パネルは、透過型のようにバックライトを必要としないため、現在も簡易な表示に多用されている。最も代表的な反射型の液晶表示はセグメント表示によるデジタル時計である。反射型でも、フロントライトと呼ばれる光源を液晶表面より手前側に備えることで、外光の無い暗所でも見えるように工夫したものがある。 これに対し、半透過型は、反射・透過両用型、つまり、外光による反射光の表示と、背面のバックライトによる透過光による表示とを組み合わせるものである。反射型でのフロントライトと同様に、暗所ではバックライトを使い、明るい場所ではライトを消すことで電力消費を抑えることができる。 反射型や半透過型は、外光が強い場合に視認性が低下するという透過型の欠点を解消できる利点がある。特に直射日光が差し込む環境などでの視認性は、その直射日光下の周囲の明るさに順応して観察者の目が明るさを感じにくくなることが影響する。透過型ではその観察者の目に表示面を明るく感じさせるためには強力なバックライトが必要になる。これに対し、外光に比例した反射光を利用する反射型および半透過型では、なんらエネルギー消費を増やさずとも、表示面を明るく感じさせることかでき、さらに外光に比例して反射光が増加するというある種の自動調整も実現する。 反射型と半透過型では液晶層の背面に反射板が置かれている。半透過型ではその反射板が半透過性の反射板とされたり、部分的に背面からの光を通過させる領域を設けて光透過性を示す反射板とされる。反射型と半透過型ともに、反射板の位置にはさらにバリエーションがあり、液晶層の背面側基板のさらに背面側のものと、前側(液晶側)のものとがある。旧来の反射型や半透過型は前者であるが、近年のアクティブ素子を利用するものでは後者も採用されている。後者は、背面側基板の厚みが表示に悪影響を及ぼさないため、高精細な表示が可能である。この場合、背面側基板はアレイ基板とされる。 特にアクティブ素子を利用する反射型や半透過型ではアレイ側の配線が不透明でも開口率に影響しにくい点で、透過型とは異なっている。つまり、反射型では、反射性の(サブ)画素電極を金属配線やアクティブ素子の上に形成した絶縁膜の上に構築することで金属配線やアクティブ素子などの非透過性要素が開口率に影響しないようにできる。また、半透過型でも、反射部分を非透過性要素に重ねて配置することが可能である。 2000年頃には、携帯電話用としてカラー表示のできる反射型TFT液晶が多用された。ところが、表示コンテンツの多様化が進展すると画質に不満が生じた。2002年頃に携帯電話にカメラ付き機種が登場すると、特に表示画面の高画質化が求められ、反射型TFT液晶に代わり半透過型TFT液晶が採用されるようになった。それ以降、ワンセグや動画再生機能などに対応した機種などのさらなる高画質化要求に応じ、透過型TFTと半透過型TFTが使い分けられている。反射型は低消費電力であるため、電話機以外でも携帯用途での利用が再び進んでいる。 セグメント表示. セグメント表示の身近な例では、電卓に多用されている8の字によって数字を表示する、7セグメントディスプレイが挙げられる。このように表示対象をいくつかの小さい領域である「セグメント」に分割し、その領域毎に外部から所望の電圧を印加するものを、セグメント表示と呼ぶ。 どのセグメントに電圧をかけるかを適宜制御すれば、数字の0 - 9等を表示し分けることができる。数字だけでなく擬似的なアルファベットも16セグメント程度で1文字を表すものがあり、各種電気機器の動作表示部などではピクトグラムのような簡単なマークもセグメントによって表される。セグメント数が少なければスタティック駆動されるが、電卓のようにセグメント数が多くなるとダイナミック駆動(人間の目で判断できないほど高速で表示を順番に切り替える方式)される。 セグメント表示の多くは中間調を持たず明暗の2つの状態で表示されているが、電池が消耗した電卓などで駆動電圧が不十分になると、表示が薄くなり、中間調のような表示が起きる。 その他. 液晶テレビでのコスト. 液晶テレビでは、液晶パネルは製造原価の6割から7割を占める重要な部分である。
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抱樸
特定非営利活動法人 抱樸(ほうぼく)は、北九州のホームレスを支援することを目的として設立された日本の認定特定非営利活動法人(NPO法人)。 沿革. 1988年、東八幡キリスト教会牧師の奥田知志らプロテスタント教会関係者と福岡日雇労働組合員による野宿労働者の調査をおにぎり持参で行ったことから、有志による炊き出しが始まり、北九州越冬実行委員会として発足。その後、北九州市を中心にホームレスの自立支援活動を実施。 2000年、NPO法人として認証を受け、団体名を北九州ホームレス支援機構に改名し、奥田が理事長に就任。2004年、国税庁より認定NPO法人として認証を受けた。しかしその後、一度自立した人がまたホームレスに戻る事例も増えたことから、高齢となった元ホームレスのための共同住居として『抱樸館北九州』(ほうぼくかんきたきゅうしゅう)を八幡東区に開設。2014年、活動25周年を機に、支援対象を障碍者にも広げたことから、現在の法人名抱樸(ほうぼく)に改めた。 ハウスレスとホームレス. 益田仁(長崎国際大学)によると、同機構はその支援理念において物理的困窮と関係性における困窮を峻別して捉えており、これは同機構の特徴であるとしている。同機構では物理的困窮をハウスレス、関係の困窮をホームレスと呼び分けている。「屋根の下」に入ること(ハウスレスからの脱却)のみではホームレスから脱却した事にはならないと捉え、関係の困窮の解消(ホームの回復)までを目的として掲げており、「日常の人間関係や居場所といったインフォーマルな資源」までを提供するという「ホームレス支援における今日的課題」への対応のあり方の好例として取り上げられている。また、この「北九州型の支援方式」は、ホームレスの支援活動の歴史が浅い自治体での支援状況を改善する上でのヒントとなる可能性が指摘されている。平成29年度スマートウェルネス住宅等推進事業|スマートウェルネス住宅等推進モデル事業に採択された。 活動. 2003年より北九州市と連携、そのほか福岡市、福岡県、厚生労働省等の行政機関との連携を通じ、これまで1600人を超えるホームレスの自立支援および自立後の生活支援を実施。北九州市から下関市、福岡市にわたって活動している。 主な働きは以下の3部門に大別される。 2016年3月末現在、185名の正会員、375名の賛助会員、99名の有給スタッフ、平均約80名の炊き出しボランティア、平均約40名のパトロールボランティア、約80名のお見舞い・声かけ・カード作りボランティアで活動している。 希望のまちプロジェクト. 福岡県北九州市に様々な機能を持った複合型社会福祉施設を建設し、そこを拠点にコンセプトとしての「まち」を拡げていきたいとする「希望のまちプロジェクト」を推進している(顧問:村木厚子)。
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ミヒャエル・ツェッテラー
ミヒャエル・ツェッテラー(Michael Zetterer、1995年7月12日 - )は、ドイツ・ミュンヘン出身のサッカー選手。ヴェルダー・ブレーメン所属。ポジションはGK。 経歴. クラブ. 2013-14シーズンにSpVggウンターハヒンクのトップチームに昇格し、シーズン中にからレギュラーを奪った。 2015年1月27日、ヴェルダー・ブレーメンに3年契約で移籍した。ブレーメンでは23歳以下のチームでリーグ戦30試合に出場したが、手の怪我にたびたび悩まされた。 2019年1月、オーストリア2部のに半年間レンタル移籍し、リーグ戦14試合に出場。 同年5月、ブレーメンに復帰し契約延長に合意したが、同年7月にPECズヴォレへ2シーズンのレンタルで移籍した。 2021年1月30日、ブレーメンに復帰した。ズヴォレでは2020-21シーズンにはリーグ戦19試合に出場し、シーズン終了まで契約を残していたが、ブレーメン側の「今が復帰の適切な時期」との判断により復帰が決まった。 代表. 代表レベルでは2014年8月、U-20ドイツ代表に初招集され、同年9月14日に行われたU-20スイス代表戦でデビュー。2015年11月16日に行われたU-20ポーランド代表戦までに通算5試合に出場した。その後、U-21ドイツ代表としても1試合に出場した。
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耳介
耳介(じかい、pinna)または耳殻(じかく)とは、動物の耳のうち、外に張り出て飛び出している部分のこと。外耳の一部。音を集める機能の他、動物によっては体温調節の機能などを担っている場合もある。なお、厳密な定義では耳には耳介以外の部分も含まれているのだが、一般生活においては耳介の部分を指して「耳」と呼ぶことが多い。 機能. 動物の耳介の機能は、音を集め、入ってきた音にスペクトル変換を行い、垂直定位のプロセスを可能にすることである。 耳介は漏斗のような役割を果たして音を集め、音を増幅して聴管に導く。ピンナから反射してくる音は、フィルタリングのプロセスを経て、周波数依存の振幅変調によって音に方向性の情報が加えられる。 種によっては、音を集める以外に、気分を伝えたり、熱を放射するといった機能もある。 ヒトの耳介. ヒトの耳介は、頭部の左右に1対存在する。この部分は、主に軟骨と皮膚とでできている。しかし、耳垂の部分には軟骨が存在しない。なお、耳介の部分に存在する軟骨を、耳介軟骨と呼ぶ。ここにはエラスチンが多く含まれており、これが耳介の形状を一定に保つのに役立っている。 さて、ヒトの耳介も、他の動物の耳介と同様に、集音器として役立っている。これは手を耳介の後ろにあてがってみれば、音の聞こえが良くなることから、その効果を確かめることができる。ただし、ヒトの場合は耳介を動かすための筋肉群(前耳介筋、上耳介筋、後耳介筋、対珠筋など)が退化しているため、耳介を意図的に動かして集音するということは事実上できない。稀にヒトでも耳介を動かすことができる個体もいるが、例えばネコのように聴きたい方向に耳介の向きを合わせるなどといった芸当は、ヒトでは到底不可能である。 それから、外耳道が共鳴器となり、共鳴する周波数付近の音の感度を上げていることは有名だが、ヒトの耳介に存在する窪みや溝も共鳴器となり、共鳴する音を増幅している。なお、ヒトの耳介で共鳴する音の周波数は、ヒトの外耳道で共鳴する音よりも、さらに高い周波数である。 ちなみに、耳介は外部に露出した部分なので、ヒトの身体の中でも凍傷になりやすい部分として知られている。したがって、寒冷地では耳介を保護するための防寒具が用いられることもある。 ヒトのY染色体の問題によって発症する、耳介の部分に毛が多くなる耳介多毛症というものも存在する。 参考文献. 出典
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荻野仁美
荻野 仁美(おぎの ひとみ、1987年〈昭和62年〉11月22日 - )は、ジョイスタッフ所属のフリーアナウンサー。元西日本放送、元WOWOWのアナウンサー。 人物. 埼玉県出身、身長148cm。血液型B型。 東京アナウンスセミナーで学び、共立女子大学卒業後の2010年西日本放送に入社。同期は小御門千絵。2015年3月末をもって西日本放送を退社。2015年4月にWOWOWへアナウンサーとして入社、2019年3月に退社。 2021年7月16日から2022年3月27日までテレビ埼玉にて、同局アナウンサー、同じ事務所所属の宮田愛子の産休に伴う代役を務めていた。 2021年11月22日の誕生日に、兼ねてから付き合っていた男性と結婚した事を自身のTwitterで公表した。
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タチヤーナ・マーヴリナ
タチヤーナ・アレクセーエヴナ・マーヴリナ(ロシア語:、;ラテン文字転写:"Tatyana Alekseevna Mavrina"、1900年12月20日 - 1996年8月19日)は、ロシアの画家。姓はマブリナとも表記される。 概要. ニジニ・ノヴゴロド生まれ。1921年にヴフテマス(Vkhutemas、Bxyтeмac、国立高等美術工芸工房または国立高等芸術技術工房)に入って絵画を学ぶ。1929年、ロシア・アヴァンギャルドのグループ“13”のメンバーとなる。1940年頃からロシアの民衆芸術、建築遺産への関心を強め、第二次世界大戦以降は風景画と昔話の挿絵の仕事が主になる。とくに魔法昔話や創作メルヘンの挿絵で評価されており、その作品はロシア美術館、トレチャコフ美術館、プーシキン美術館などに収蔵されている。プーシキン美術館の個人コレクションに収められているマーヴリナ・コレクションには、彼女自身の作品のほかに、夫のニコライ・クズミンとともに長年にかけて収集した古い民芸品やイコンが含まれており、彼女の創作の源をうかがうことができる。 ライプツィヒ国際図書デザイン展銀賞(1959)、ドイツ児童図書賞銀賞(1965)、 ソビエト連邦国家賞(1975)、国際アンデルセン賞(1976)などを受賞。
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あつみ型輸送艦
あつみ型輸送艦(あつみがたゆそうかん、)は海上自衛隊の輸送艦の艦級。海自初の国産輸送艦である。 来歴. 海上自衛隊では、1961年にアメリカ海軍が退役させたLST-542級戦車揚陸艦(LST-1級最後期型)3隻の供与を受け、おおすみ型輸送艦として運用を開始した。同型3隻は横須賀地方隊の隷下に第1輸送隊を編成したが、1962年5月1日には自衛艦隊の直轄下に隷属替えとなり、海上輸送及び海上作戦輸送に従事した。 また1968年の小笠原諸島本土復帰に伴って硫黄島航空基地分遣隊や父島基地分遣隊の開隊が決定されると、そのビーチング能力を生かして、港湾施設が未整備のこれらの地域において、補給物資や器材の輸送に活躍した。 このことから、地方隊の専属艦として同様の業務にあてるための輸送艦として計画されたのが本型である。 設計. 設計にあたっては、おおすみ型を手本とした戦車揚陸艦(LST)型とされており、艦首を海岸に擱座して兵員・車両を揚陸することを前提としている。艦首部に観音開きの門扉(バウ・ドア)とその中に道板(バウ・ランプ)を設け、その後方に連続して車両甲板を設置するという設計は共通だが、バウ・ドアとバウ・ランプは油圧駆動とされており、またバウ・ランプは二段の折りたたみ式とされた。後部上構両側の01甲板レベルには車両人員揚陸艇(LCVP)を搭載するためのが設置されていたが、このうち右舷側のものはより大型の機動揚陸艇(LCM)にも対応可能とされていた。この場合、右舷側のLCVPは上甲板に移された。また艦橋前の上甲板左舷には10トンデリックが設けられ、物資の揚降に用いられたが、「ねむろ」ではデッキクレーンに変更された。 搭載能力は1個普通科中隊130名と装備車両、または400トンの物資揚陸ができ、74式戦車であれば5両、3.5トン・トラックであれば10両を搭載できた。戦車は車両甲板に搭載され、その両側に兵員収容区画が設けられた。 なお主機関としては、昭和42年度計画の訓練支援艦「あづま」(42ATS)から採用された方式が踏襲されて、川崎造船・MAN社製V8V22/30ATL V型16気筒ディーゼルエンジンが2基搭載され、1基ずつで両舷の推進器を駆動する方式とされた。 配備. まず第3次防衛力整備計画中の昭和45年度計画において1隻が建造された後、第4次防衛力整備計画においてさらに2隻が建造された。このうち3番艦「ねむろ」は昭和48年度に予算計上されたが、オイルショックによる建造費急騰で契約不能となり、改めて昭和50年度に計画された。
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極東国際軍事裁判
極東国際軍事裁判(きょくとうこくさいぐんじさいばん、、)とは、1946年(昭和21年)5月3日から1948年(昭和23年)11月12日にかけて行われた、ポツダム宣言第10項を法的根拠とし、連合国軍占領下の日本にて連合国が戦争犯罪人として指定した日本の指導者などを裁いた一審制の軍事裁判のことである。極東()とはヨーロッパ・アメリカ及び経度から見て、最も東方を指す地政学あるいは国際政治学上の地理区分。東京裁判(とうきょうさいばん、)とも称される。 ドイツの降伏後にイギリス、フランス、アメリカ合衆国、ソビエト連邦の4ヵ国が調印した国際軍事裁判所憲章に基づいてドイツでニュルンベルク裁判が実施された。それを参照してが定められた。11カ国(インド、オランダ、カナダ、イギリス、アメリカ、オーストラリア、中国、ソ連、フランス、ニュージーランド、フィリピン)が裁判所に裁判官と検察官を提供した。弁護側は日米弁護士で構成された。極東国際軍事裁判に起訴された被告は合計28名であった。 ほぼ同時期に重なって、BC級のみに該当するとされた戦争犯罪を裁いた裁判が横浜で行われており、こちらは横浜裁判と呼ばれる。 概要. 裁判. 本裁判は、連合国によって東京市ヶ谷に設置された極東国際軍事法廷により、東条英機元内閣総理大臣を始めとする、日本の指導者28名を「平和愛好諸国民の利益並びに日本国民自身の利益を毀損」した「侵略戦争」を起こす「共同謀議」を「1928年(昭和3年)1月1日から1945年(昭和20年)9月2日」にかけて 行ったとして、平和に対する罪(A級犯罪)、通常の戦争犯罪(B級犯罪)及び人道に対する罪(C級犯罪)の容疑で裁いたものである。 「共同謀議」の始期を1928年(昭和3年)1月1日からとしたのは検事側が田中上奏文(偽物)を見て信じたからと推測されるが、検事が秦徳純将軍を出廷させこの文書を証明しようとしたが、この証言は林逸郎弁護士の反対尋問により破られた。 被告人. A級「平和に対する罪」で有罪になった被告人は23名、B級「通常の戦争犯罪」で有罪になった被告人は7名、C級「人道に対する罪」で有罪となった被告人はいない。 裁判中に病死した2名と病気によって免訴された1名を除く25名が有罪判決を受け、うち7名が死刑となった。 日本国政府. 日本国政府は1952年(昭和27年)に発効した日本国との平和条約第11条によりこの「the judgments 」を受諾し、異議を申し立てる立場にないという見解を示している。 開廷までの経緯. アメリカの対日政策. 敵国の戦争犯罪の取り扱いについての初期の議論. 1944年8月から終戦以降の政策方針と敵国の戦争犯罪人の取り扱いについて議論された。ヘンリー・モーゲンソー財務長官はナチス指導者の即決処刑を主張し、他方、ヘンリー・スティムソン陸軍長官は「文明的な裁判」による懲罰を主張した。アメリカの新聞はモーゲンソーの即決処刑論を猛攻撃し、ルーズベルト大統領も裁判方式を支持することとなった。スティムソンは裁判は「報復」の対極にあるとみなしていた。 国務・陸軍・海軍三省調整委員会極東小委員会. アメリカ対日政策を検討する機関として1944年12月に国務・陸軍・海軍三省調整委員会 (SWNCC) が設立された。さらにその下位組織極東小委員会 (Subcommittee for the Far East,SFE) が1945年(昭和20年)1月に設立され、日本と朝鮮の占領政策案が作成された。裁判方式にするか、指導者の処刑方式かの検討もなされ、1945年8月9日報告書 (SFE106) では対独政策を踏襲し、「共同謀議」の起訴を満州事変までさかのぼること、日本にはドイツのような組織的迫害の行為はなかったので人道に対する罪を問責しても無駄であると報告された。 8月13日の会議では日本に対しても平和に対する罪、人道に対する罪の責任者を含めることが合意され、8月24日のSWNCC57/1で占領軍が直接逮捕をし、容疑者が自殺で殉教者になることを防ぐ、連合国間の対等性を保障し各国が首席判事を出すこと、判決の権限はマッカーサーにあるとされた。 連合国戦争犯罪委員会による対日勧告. 1943年(昭和18年)10月20日に17カ国が共同で設立した連合国戦争犯罪委員会(UNWCC)は戦争犯罪の証拠調査を担当する機関であったが、終戦期には政策提言などを行うようになっており、オーストラリア代表ライト卿が対日政策勧告を提言し、1945年(昭和20年)8月8日には極東太平洋特別委員会を設置し、委員長には中華民国の駐英大使顧維鈞が就任し、8月29日に対日勧告が採択された。 SWNCC57/3指令. アメリカ統合参謀本部がJCS1512、またアメリカ合衆国内の日本占領問題を討議する国務・陸軍・海軍調整委員会が1945年(昭和20年)10月2日にSWNCC57/3指令をマッカーサーに対して発し、日本における軍事裁判所の設置準備が開始された。 しかし、ダグラス・マッカーサーはこうした「国際裁判」には否定的で、「57/3指令を公表すれば、日本政府がダメージを受けて直接軍政をせざるをえない、東條英機を裁く権限を自分に与えるよう同年10月7日の陸軍宛電報で述べ、アメリカ単独法廷を主張し、ハーグ条約で対米戦争を裁くことによる「戦争の犯罪化」に反対した。GHQ参謀第二部部長チャールズ・ウィロビーによれば、マッカーサーが東京裁判に反対したのは南北戦争で南部に怨恨が根深く残ったことを知っていたからだと述べている。 スティムソン、マクロイ陸軍次官補らはマッカーサーの提言を採用せず、57/3指令の国際裁判方針を固守した。 イギリス. イギリス外務省はアメリカの対日基本政策に対して消極的で、日本人指導者の国際裁判にも賛同していなかった。もともとイギリスは、1944年(昭和19年)9月以来、ドイツ指導者の即決処刑を米ソに訴えていた。イギリスは、裁判方式は長期化するし、またドイツに宣伝の機会を与えるし、伝統的な軍事裁判は各国で行えばよいという考えだった。結局英国は、1945年(昭和20年)5月に、ドイツ指導者の国際裁判に同意した。 ただし、この時点でもまだ日本指導者の国際裁判には同意していなかった。のち、イギリス連邦政府自治省およびイギリス連邦自治領のオーストラリアやニュージーランドによる裁判の積極的関与をうけたが、イギリスは同年12月12日、アメリカに技術的問題の決定権を委任した。 中華民国. 中華民国国民党政府(国府)では、カイロ会談直前の1943年(昭和18年)10月、孫文の長男孫科が重慶の英字紙ナショナル・ヘラルドで天皇および天皇崇拝を一掃せよと論じた。その後重慶に設置された連合国戦争犯罪委員会極東小委員会はアメリカ、イギリス、中華民国、オランダで構成され、日本人戦犯リストを選定した。 1945年(昭和20年)6月に作成された「侵戦以来敵国主要罪犯調査票」では、「日皇裕仁」をはじめとする「陸軍罪犯」173人、「海軍罪犯」13人、「政治罪犯」41人、「特殊罪犯」20人が選定された。7月17日、国民参政会は、天皇を戦争犯罪人として指名し、天皇制度廃止を主張したが、国民党政府は米国の方針と合わせて、訴追しないとした。 同年9月の「日本主要戦争罪犯名単」では178人が選定され、その後「日本侵華主要罪犯」として本庄繁、土肥原賢二、谷寿夫(第6師団長)、橋本欣五郎、板垣征四郎、畑俊六(支那派遣軍総司令官)、東條英機、和知鷹二(太原特務機関長)、影佐禎昭(支那派遣軍総司令部)、酒井隆(第23軍司令官)、磯谷廉介(香港総督)、喜多誠一(第1方面軍司令官)の12人、さらに1946年1月に「第2批日本主要戦犯名単」として、南次郎、荒木貞夫、平沼騏一郎、阿部信行、米内光政、小磯国昭、嶋田繁太郎、広田弘毅、松岡洋右、東郷茂徳、梅津美治郎、松井石根、寺内寿一、牟田口廉也、河辺正三、谷正之、山田乙三、有田八郎、青木一男、末次信正、西尾寿造ら21人、合計33人の戦犯名簿をGHQに提出した。またBC級戦犯は83人が選定され、極東小委員会は1947年3月までに日本軍人戦犯合計3147人を選定し、このうち国民党政府が指名したものは、2523人にのぼった。 12月23日には、中央憲兵司令部天津情報組駐東北情報員李箕山の「日本再起防止 共同管制政策」では天皇に退位を求め、万世一系の皇統思想をひっくり返すと主張した。 また翌1946年から1948年の文書「日本天皇世系問題」では天皇は日本の侵略的軍国主義の精神的基礎であるため排除を求めた。 国際検察局の設置. 1945年(昭和20年)12月6日、アメリカ代表検事ジョセフ・キーナンが来日する。翌7日、マッカーサーは事後法批判の回避、早期開廷、東条内閣閣僚の起訴をキーナンに命じた。翌12月8日、GHQの一局として国際検察局 (IPS) が設置された。 国際軍事裁判所憲章と特別宣言. 1946年(昭和21年)1月19日、ニュルンベルク裁判の根拠となった国際軍事裁判所憲章を参照して極東国際軍事裁判所条例(極東国際軍事裁判所憲章)が定められた(1946年4月26日一部改正)。 同日、連合国軍最高司令官マッカーサー元帥が極東国際軍事裁判所設立に関する特別宣言を発した。この宣言は、ポツダム宣言および降伏文書、1945年12月26日のモスクン会議によってマッカーサーに対してアメリカ・イギリス・ソ連、そして中華民国から付与された、日本政府が降伏条件を実施するために連合国軍最高司令官が一切の命令を行うという権限に基づく。 フランス. アメリカ国務省は1945年末にフランス政府に対し判事と検察官を指名するよう要請したが、フランスが悠長であったため翌1946年1月22日に催促した。フランスははじめインドシナ高等弁務官のダルジャンリューの意見もあり、パリ大学のジャン・エスカラを選んだ。エスカラは1920年代に蒋介石中華民国の法律顧問をつとめたこともあったが、要請を断り、他の学者を紹介するにとどめた。一方、第二機甲師団陸軍准将ポール・ジロー・ド・ラングラードらが政府に対して派遣する法律家は植民地での経験があるものがよいと提言し、マダガスカルや西アフリカの控訴院判事を歴任したアンリ・アンビュルジュが指名された。しかしアンビュルジュも出発直前になって固辞し、アンリ・ベルナールが指名された。 日本の裁判対策. 終戦後、日本では自主裁判も構想されたが、美山要蔵の日記にもあるように残虐行為の実行者のみが裁判の対象となってしまい、戦争裁判は戦勝国による「勝者の裁き」であるとの覚悟があったとされる。 1945年(昭和20年)10月3日、東久邇宮内閣は「戦争責任に関する応答要領(案)」を作成し、その後11月5日終戦連絡幹事会は「戦争責任に関する応答要領」を作成し、天皇を追及から守ること、国家弁護と個人弁護を同時に追求すると書かれた。 外務省外局終戦連絡中央事務局主任の中村豊一は同年11月20日、戦争裁判対策を提言し、弁護団、資料提供、臨時戦争犯罪人関係調査委員会の設置、戦争犯罪人審理対策委員会を提言したが、外務省は政府指導になるという理由で却下した。 その後、吉田茂が12月に法務審議室を設置した。翌1946年(昭和21年)2月には内外法政研究会が発足し、高柳賢三、田岡良一、石橋湛山らが戦争犯罪人の法的根拠や開戦責任などについての研究報告をおこなった。 また意外なことに巣鴨拘置所では裁判前の尋問段階から収監者どうしの会話は自由でいくらでも口裏を合わすことが可能であった。そのためか、個々の人間の裁判に対する姿勢は諦観に包まれて殊更争おうとはしないものなどもいて差異もあったものの、全員がこれを法戦ととらえ、無罪を主張することでは一致していた。また、暴力行為や右翼で名を知られた者も多いBC級戦犯もともに収監されており、橋本欣五郎などはそのような取り巻き3、4名がいたのを刑期中のことであるが見られている。。 裁判. 国際検察局から執行委員会へ. 1946年(昭和21年)2月2日、イギリス代表検事が来日する。2月13日に ジョセフ・キーナンアメリカ合衆国代表検事がアメリカ以外の検事は参与であるとの通達を出すと、イギリス、英連邦検事はこれに反発し、3月2日に各国検事をメンバーとした執行委員会が設立される。 被告人の選定. 1946年(昭和21年)1月、被告の選定にあたってイギリスはニュルンベルク裁判と同様に知名度を基準に10人を指名した。執行委員会の4月4日会議では29名が選ばれるが、4月8日には石原莞爾、真崎甚三郎、田村浩が除外された。4月13日にはソ連検事が来日したが、ソ連側は天皇訴追を求めなかった。そのかわり4月17日、ソ連は鮎川義介、重光葵、梅津美治郎、富永恭次、藤原銀次郎の起訴を提案し、そのうち重光と梅津が追加され、被告28名が確定した。 起訴状の作成過程. 1946年(昭和21年)4月5日の執行委員会でイギリスのアーサー・S・コミンズ・カー検事は起訴状案を発表、そのなかで「平和に対する罪」の共同謀議を、1931年〜1945年の「全般的共同謀議」と4つの時期におよぶ個別的共同謀議(満州事変、日中戦争、三国同盟、全連合国に対する戦争)の5つに分割した。また平和に対する罪では死刑を求刑できないので、通例の戦争犯罪である公戦法違反で裁くべきであると主張した。 訴因「殺人」と「人道に対する罪」. 極東国際軍事裁判独自の訴因に「殺人」がある。ニュルンベルク・極東憲章には記載がないが、これはマッカーサーが「殺人に等しい」真珠湾攻撃を追及するための独立訴因として検察に要望し、追加されたものである。これによって「人道に対する罪」は同裁判における訴因としては単独の意味がなくなったともいわれる。しかも、1946年4月26日の憲章改正においては「一般住民に対する」という文言が削除された。最終的に「人道に対する罪」が起訴方針に残された理由は、連合国側がニュルンベルク裁判と東京裁判との間に統一性を求めたためであり、また法的根拠のない訴因「殺人」の補強根拠として使うためだったといわれる。このような起訴方針についてオランダ、中華民国、フィリピンは「アングロサクソン色が強すぎる」として批判し、中国側検事の向哲濬(浚)は、南京事件の殺人訴因だけでなく、広東・漢口での日本軍による偶発的行為を追加させた。 ニュルンベルク裁判の基本法である国際軍事裁判所憲章で初めて規定された「人道に対する罪」が南京事件について適用されたと誤解されていることもあるが、南京事件について連合国は交戦法違反として問責したのであって、「人道に関する罪」が適用されたわけではなかった。南京事件は訴因のうち第二類「殺人」(訴因45-50)で扱われた。 なお、731部隊等で知られる日本軍の非人道的な人体実験や生物兵器・毒ガス兵器の研究開発については、これらのデータを入手・秘匿したかった米軍が日本側責任者であった石井四郎と免責と引換えにこれを入手することにした為、また、旧日本軍の実際の戦闘での毒ガス使用については、米軍は日本軍の日中戦争での使用の証拠を掴んでいたものの、当時始まり出していた冷戦の中でこの分野では自陣営側が有利と見た米軍が、既に国際条約では使用を禁止されていたとはいえ、東京裁判で取り上げて自ら毒ガス使用を完全に戦争犯罪とし、自軍の手を縛るようなことは避けたかった為、それぞれ東京裁判では扱われなかったとする説がある。 昭和天皇の訴追問題. オーストラリアなど連合国の中には昭和天皇の訴追に対して積極的な国もあった。白豪主義を国是としていたオーストラリアは、人種差別感情に基づく対日恐怖および対日嫌悪の感情が強い上に、差別していた対象の日本軍から繰り返し本土への攻撃を受けたこともあり、日本への懲罰に最も熱心だった。また太平洋への覇権・利権獲得のためには、日本を徹底的に無力化することで自国の安全を確保しようとしていた。エヴァット外相は1945年9月10日、「天皇を含めて日本人戦犯全員を撲滅することがオーストラリアの責務」と述べている。1945年8月14日に連合国戦争犯罪委員会 (UNWCC) で昭和天皇を戦犯に加えるかどうかが協議されたが、アメリカ政府は戦犯に加えるべきではないという意見を伝達した。1946年1月、オーストラリア代表は昭和天皇を含めた46人の戦犯リストを提出したが、アメリカ、イギリス、フランス、中華民国、ニュージーランドはこのリストを決定するための証拠は委員会の所在地ロンドンに無いとして反対し、このリストは対日理事会と国際検察局に参考として送られるにとどまった。8月17日には、イギリスから占領コストの削減の観点から、天皇起訴は政治的誤りとする意見がオーストラリアに届いていたが、オーストラリアは日本の旧体制を完全に破壊するためには天皇を有罪にしなければならないとの立場を貫き、10月にはUNWCCへの採択を迫ったが、米英に阻止された。 アメリカ陸軍省でも天皇起訴論と不起訴論の対立があったが、マッカーサーによる昭和天皇との会見を経て、天皇の不可欠性が重視された。さらに1946年(昭和21年)1月25日、マッカーサーはアイゼンハワー参謀総長宛電報において、天皇起訴の場合は、占領軍の大幅増強が必要と主張した。このようなアメリカの立場からすると、オーストラリアの積極的起訴論は邪魔なものでしかなかった。 なお、オーストラリア同様イギリス連邦の構成国であるニュージーランドは捜査の結果次第では天皇を起訴すべしとしていたが、GHQによる天皇利用については冷静な対応をとるべきとカール・ベレンセン駐米大使はピーター・フレイザー首相に進言、首相は同意した。またソ連は天皇問題を提起しないことをソ連共産党中央委員会が決定した。 同年4月3日、最高意思決定機関である極東委員会 (FEC) はFEC007/3政策決定により、「了解事項」として天皇不起訴が合意され、「戦争犯罪人としての起訴から日本国天皇を免除する」ことが合意された。4月8日、オーストラリア代表の検事マンスフィールドは天皇訴追を正式に提議したが却下され、以降天皇の訴追は行われなかった。 海軍から改組した第二復員省では、裁判開廷の半年前から昭和天皇の訴追回避と量刑減刑を目的に旧軍令部のスタッフを中心に、秘密裏の裁判対策が行われ、総長だった永野修身以下の幹部たちと想定問答を制作している。また、BC級戦犯に関係する捕虜処刑等では、軍中央への責任が天皇訴追につながりかねないことを避けるという名分で、出来るだけ下の者に負わせ、最悪でも現場司令官で責任をとどめる弁護方針の策定などが成された。このような合意が容易に形成されたことには、階級社会の英海軍を範として生まれた日本海軍の体質に淵源を求める考え方がある。さらに、陸軍が戦争の首謀者であることにする方針が掲げられていた。 同年3月6日にはGHQとの事前折衝にあたっていた米内光政へマッカーサーの意向として天皇訴追回避と、東條以下陸軍の責任を重く問う旨が伝えられたという。また、敗戦時の首相である鈴木貫太郎を弁護側証人として出廷させる動きもあったが、天皇への訴追を恐れた周囲の反対で、立ち消えとなっている。 なお昭和天皇は「私が退位し全責任を取ることで収めてもらえないものだろうか」と言ったとされる。 起訴状の提出. 起訴状の提出は1946年(昭和21年)4月29日に行われた。 極東国際軍事裁判において訴因は55項目であったが、大きくは第一類「平和に対する罪」(訴因1-36)、第二類「殺人」(訴因37-52)、第三類「通例の戦争犯罪及び人道に対する罪」(53-55)の3種類にわかれた。判決では最終的に10項目の訴因にまとめられた。 弁護団の結成. GHQは1945年(昭和20年)11月には戦犯容疑者が非公式で弁護人を探すことを許可していた。 開廷. 1946年(昭和21年)5月3日午前11時20分、市ヶ谷の旧陸軍士官学校の講堂において裁判が開廷した。27億円の裁判費用は当時連合国軍の占領下にあった大日本帝国政府が支出した。 連合国のうち、イギリス、アメリカ、中国、フランス、オランダ、ソ連の7か国と、イギリス連邦内の自治領であったオーストラリア、ニュージーランド、カナダ、そして当時独立のためのプロセスが進行中だったインド とフィリピン が判事を派遣した。 同日午後、大川周明被告が前に座っている東条英機の頭をたたき、翌日に病院に移送された。 罪状認否. 同年5月6日、大川をのぞく被告全員が無罪を主張した。この罪状認否手続きは定型の手続きであって、無罪を主張するのは普通に見られることである。フィルムでみる限り、全体に厳かに行っているように見えるが、そのときの様子を毎日新聞記者はラジオで「傲然たる態度」と形容し、読売新聞記者も同様の形容をしている。 なお、罪状認否手続きは欧米法における手続きであり、裁判官の「有罪か無罪か(Guilty or Not Guilty)」の問に対して、被告が「無罪(Not Guilty)」と答えることにより、事件の事実に関する審判(事実審)をし、「有罪(Guilty)」と答えると、検察側の主張を認め、量刑のみを行う(法律審)と言う法廷慣習である。東京裁判でこの慣習が厳密に適用されるものではないが、被告人らの目的の一つである、法戦と称する、いわば法廷闘争の為には、被告人自身の無罪の主張が必要となる。とはいえ、被告人らはそれぞれ自身の訴因一つ一つについて、本来は其々自由に認否を行うことができ、全て一律に認否を揃えなければならないものではないし、また、その認否がなにか他人を拘束あるいは影響するものでもない。また、そのことをよく理解して行えるよう、GHQ側はもともと一人一人に専任弁護人を付けている。城山三郎『落日燃ゆ』において、開廷前に広田弘毅が「無罪とは言えない」と抵抗するのを弁護士団が説得するエピソードが語られている(ただし、この小説は広田をドラマチックに美化して書かれているものであるため、どこまで事実かは検討の要がある)。 弁護側の管轄権忌避動議. 同年5月13日、清瀬一郎弁護人は管轄権の忌避動議で、ポツダム宣言時点で知られていた戦争犯罪は交戦法違反のみで、それ以後に作成された平和に対する罪、人道に対する罪、殺人罪の管轄権が、本裁判所にはないと論じた。 この管轄権問題は、判事団を悩ませ、同年5月17日の公判でウェッブ裁判長は「理由は将来に宣告します」と述べて理由を説明することになしにこの裁判所に管轄権はあると宣言した。 しかし、その後同年6月から夏にかけてウェッブ裁判長は平和に対する罪に対し判事団は慎重に対処すべきで、「戦間期の戦争違法化をもって戦争を国際法上の犯罪とするのは不可能だから、極東裁判所は降伏文書調印の時点で存在した戦争犯罪だけを管轄すべきだ。もし条約の根拠なしに被告を有罪にすれば、裁判所は司法殺人者として世界の非難を浴びてしまう。憲章が国際法に変更を加えているとすれば、その新しい部分を無視するのが判事の義務だ」と問題提起をしたという。日暮吉延はこのウェッブ裁判長の発言は裁判所の威厳保持のためであったとしたうえで、パル判決によく似ていたと指摘している。 補足動議. 同年5月14日午前、ジョージ・A・ファーネス弁護人が裁判の公平を期すためには中立国の判事の起用が必要であるとのべた。またベン・ブルース・ブレイクニー弁護人は、戦争は犯罪ではない、戦争には国際法があり合法である、戦争は国家の行為であって個人の行為ではないため個人の責任を裁くのは間違っている、戦争が合法である以上戦争での殺人は合法であり、戦争法規違反を裁けるのは軍事裁判所だけであるが、東京法廷は軍事裁判所ではないとのべ、さらに戦争が合法的殺人の例としてアメリカの原爆投下を例に、原爆投下を立案した参謀総長も殺人罪を意識していなかったではないか、とも述べた。 翌5月15日付の朝日新聞は「原子爆弾による広島の殺傷は殺人罪にならないのかー東京裁判の起訴状には平和に対する罪と、人道に対する罪があげられている。真珠湾攻撃によって、キツド提督はじめ米軍を殺したことが殺人罪ならば原子爆弾の殺人は如何ー東京裁判第五日、米人ブレークニイ弁護人は弁護団動議の説明の中でこのことを説明した」と報道した。また全米法律家協会もブレイクニー発言を機関紙に全文掲載した。 検察側立証. 立証段階. 以下、立証段階の日程と項目である。 キーナン冒頭陳述. 1946年(昭和21年)6月4日、首席検察官を務めたジョセフ・キーナンは冒頭陳述において、本裁判について「これは普通一般の裁判ではありません」「全世界を破滅から救うために文明の断乎たる闘争の一部を開始している」、被告(日本軍部)は「文明に対し宣戦を布告しました」と述べた。キーナンは日本の不義なる体質を日露戦争にまでさかのぼって、侵略戦争をするのは国家でなく個人であると主張した。キーナンは陳述を終えるとすぐに帰国し、不在の間決定権は誰にあるのかわからない状態であった。英連邦検察陣はキーナンを尊大で自分が目立つことばかり考えていると語っていた。 裁判の進行は遅く、ニュージーランドの判事や検事は検察のおよび裁判長の運営方法が問題であるとして辞意を示している。 証人喚問. 証人にはドナルド・ニュージェント、大内兵衛、瀧川幸辰、前田多門、伊藤述史、鈴木東民、幣原喜重郎、清水行之助、徳川義親、若槻礼次郎、田中隆吉らがなった。 また元満州国皇帝:愛新覚羅溥儀も出廷した。ハバロフスクに抑留中の溥儀は支那からは漢奸裁判にかけられるかもしれないという脅威もあり、「すべて日本の責任で自分に責任はない」と証言した。8月21日にブレイクニ弁護人が溥儀の書簡を出して反対尋問を行うと「全く偽造であります」といい、重光葵は歌舞伎の芝居のようであったと回想している。溥儀も後の自伝で、自身を守るために偽証を行い、満州国の執政就任などの自発的に行った日本軍への協力を日本側によると主張し、関東軍吉岡安直などに罪をなすりつけたことを認めている。また自らの偽証が日本の行為の徹底的な解明を妨げたとして、「私の心は今、彼(キーナン検事)に対するおわびの気持ちでいっぱいだ」と回想している。 アンリ・ベルナール判事は溥儀の証言について「溥儀は、満州国は最初から全て日本の支配下にあったと述べているが、彼自身がすでに、1932年3月10日に本庄関東軍司令官に対して同意を提案する書簡を書いているではないか。この書簡の署名が強制のもとになされたものであるという事実は証明されなかったのだから、溥儀が法廷で行った興味深い供述から生じたような結果などよりも、本官はその書簡によって示されたものを信じる」と述べている。 弁護側反証. 検察側立証が終了すると、弁護団は1947年(昭和22年)1月27日、公訴棄却動議を提出し、デイヴィッド・スミス弁護人はアメリカ連邦裁判所への提起も考えているとのべた(判決後に提訴。広田判例を参照)。同年2月24日、弁護側反証が開始された。 弁護人による被告別動議は次の通り。内容欄のソートボタンで元の順序に戻る。 弁護側証人. 東京裁判に出廷した日本人証言は宣誓した上で証言し、かつ検察官による反対尋問が行われた。なお、支那人証人に対しての反対尋問は行われていない。 判決. 最終的訴因. 当初55項目の訴因があげられたが、「日本、イタリア、ドイツの3国による世界支配の共同謀議」「タイ王国への侵略戦争」の2つについては証拠不十分のため、残りの43項目については他の訴因に含まれるとされ除外され、1948年(昭和23年)夏には、最終的には以下の10項目の訴因にまとめられた。 判事の個別意見書. 判決はイギリス、アメリカ、中国、ソ連、カナダ、ニュージーランド、フィリピンの7か国の判事による多数判決であった。 判事団の多数判決に対して、個別意見書が5つ出された。同意意見としてフィリピンのハラニーニャ意見書、別個意見としてウェブ意見書、パル、ベルト・レーリンク、アンリ・ベルナールは反対意見書を提出した。極東国際軍事裁判所条例ではこれら少数意見の内容を朗読すべきものと定められており、弁護側はこれを実行するように求めたが、法廷で読み上げられることはなかった。 ハラニーニャ同意意見書. 徹底した親米派のハラニーニャ同意意見書では、刑が一部寛大にすぎると批判し、原爆投下が早期決戦をもたらしたとまで述べられた。これはパル反対意見書を批判する目的で書かれたとみられている。 パールの個別反対意見書. イギリス領インド帝国の法学者・裁判官ラダ・ビノード・パール判事は判決に際して判決文より長い1235ページの「意見書」(通称「パール判決書」)を発表し、事後法で裁くことはできないとし全員無罪とした。この意見は「日本を裁くなら連合国も同等に裁かれるべし」というものではなく、パール判事がその意見書でも述べている通り、「被告の行為は政府の機構の運用としてなしたとした上で、各被告は各起訴全て無罪と決定されなければならない」としたものであり、また、「司法裁判所は政治的目的を達成するものであってはならない」とし、多数判決に同意し得ず反対意見を述べたものである。。彼自身は、ヒンズー法哲学を博士号論文としており、判決の思想・価値観にその影響が色濃く反映しているとみる見方もある。 また、パール判決に関する論争として中島岳志、小林よしのり、牛村圭らによるパール判決論争がある。 ベルナールの個別反対意見書. アンリ・ベルナール判事は 梅汝璈中国代表判事に対して1948年7月26日に「正義は連合国の中にあるのではないし、その連合国の誰もが連合という名の下にいかなる特別な敬意を受けることができるわけでもないのだ」と述べている。また南次郎が満州事変を「自衛権の発動」と承認した時に多数派判事が非難するなかベルナール判事は満州事変は「ありふれた事件」でしかなく、また「自衛すべきであると思うときには自衛権がある」「この決まりは実際に攻撃も侵略もないケースにおいても自衛権の発動を妨げるものではない」と述べた。満州事変問題については「事変と称されている事実が起きた時点では、支那国民党政府自身、まだ日本を敵国とみなしていなかった」として、当時の日支衝突を日本側の行為だけを非とするのはおかしいとし、また「我々は、あらゆる大国が自らにとっての生命線を自国内ではなく他の国に置いてきたことを了承してきたし、今日でも了承しているではないか。チャーチルはイギリスの生命線をライン河に置いてきた」とものべ、さらに「法的な解決、あるいは仲裁のイニシアティブをとるべきであったのは、日本によって行使される特権の廃止を求めていた支那側にあった」と主張した。また、オーウェン・カニンガム弁護人が東京裁判を「茶番劇」と批判したことについて判事たちが法廷から追放したことについては、いかなる制裁措置も適用されてはならないと批判した。共同謀議については定義が曖昧で、被告が共同謀議に成功したとする多数派判決について「疑わしく」、「正式な証拠がない限り、この疑いを消えないし、また被告を有罪とすることは許されない」とのべた。 ベルナールの個別反対意見書では、自然法は国家の上位にあり、自然法によって侵略戦争が犯罪であることは証拠があれば可能である、しかし日本の侵略陰謀の直接的証拠はなく、東アジアを支配したいという希望の存在が証明されたにすぎないから平和に対する罪で被告を有罪にすることはできない。また検察官が起訴した人間を裁くだけであること、天皇が不起訴であったことは遺憾と述べた。また東京裁判で予審が行われなかったことについて「訴追が最も重大な性質の犯罪に関したものであり、その立証が非常に大きな困難をもたらすものであったという事実にもかかわらず。被告は直接に本裁判所に対して起訴され、かれらは、予審という方法によって弁護側資料を手に入れたり、まとめたりするように努力する機会を与えられなかった。予審は、検察側からも弁護側からも独立した司法官が双方に同等に都合のよいように行うものであって、その間に被告は弁護人の援助によって利益を得たであろうと思われる。本官の意見では、この原則の違反から起こる実際の結果は、本件においては特に重大である」と主張した。また、「裁判所が欠陥のある手続きを経て到達した判定は、正当なものではあり得ない」と東京裁判について断じた。 レーリンクの個別反対意見書. ベルト・レーリンク判事は個別反対意見書において、侵略戦争が犯罪になったのは1928年の不戦条約でなく、1945年8月のロンドン協定からであるとしながらも、罪刑法定主義や法の不遡及といった原則は裁判官や立法機関といった国家権力の恣意的制裁から個人を保護する為の原則であり当時の国際関係へ適用されるべきではないとし、ともかく自由のために戦った戦勝国は必要ならその原則を無視してもよいとした。戦争防止の為に新しい法的解法を模索すべきであって、「平和に反する罪」が特別に解釈されるべきであるとも主張した。しかしニュルンベルク裁判の量刑と比較し身柄を拘束する事は既存の国際法と一致するが死刑にするのは不当だとして反対した。レーリンクは帝国日本の膨張を「征服戦争であり、不法な拡張であった」と規定し、「新秩序」を構築してアジアを解放しようとしたという被告側の主張を認めなかった。日本の覇権主義は1937年以後の日本政府要人の言動と政策によって確認され、状況に伴って変貌した態度にてアジア解放に対する偽善が露出すると説明した。例えは、1940年に東インド諸島の独立を支持するといった日本が1941年の戦争開始後の段階では日本に頼るよう画策し、やがって占領後には会合・結社までも禁止し、日本の領土として帰属させ、1944年に入って戦勢が不利になるとまた独立を約束しながら対日協力を誘導しようとしたと指摘した。結局、「共栄圏」スローガンは「日本のためのアジア」構築の策略であったという。レーリンクは意見書の中で次のように述べた。  「新秩序」を立てようとした日本の野望が大戦の原因であったという点に疑いの余地がない。(中略)この新秩序が対米交渉を座礁させたのである。弁護側の最終弁論によれば、1941年末の状況は内部的要因に鑑み支那からの撤退は日本の立場から不可能なもので対米交渉の妥結も不可能であって結局このジレンマは戦争に繋がったという。本裁判所に提出された証拠はそれとは違う結論に至らせる。(中略)「新秩序」は中心争点であり対立の核心であった。「新秩序」はきちんといわば世界を支配できるほどの広大で強力な帝国の誕生を意味した。米国の不信は妥当であって、「新秩序」が各種条約を違えながら展開していたという判断に適した。「アジア人のためのアジア」というスローガンが支えた「新秩序」の概念に真実性があったか、それともドイツの国家社会主義のようなもう一つの内在的、理念的侵略の手段であったかを判断することは本裁判に本質的な関わりを持つ。本裁判に提示された証拠によれば「新秩序」概念は事実上は侵略の手段それ以上のものではなかった (Röling 1948: 739-740)。 また、レーリンクは広田弘毅に対して「支那側の要求で、広田は南京虐殺と日本側の不法行為に責任ありとして裁判にかけられ、死刑判決を受けました。私は、広田は南京虐殺に責任ありとは思いません。生じたことを変え得る立場ではなかったのです。ですから、私の反対判決は、彼は無罪放免とすべきという趣旨でした」とのべ、被告人について「彼らはそのほとんどが一流の人物でした。」「海軍軍人、それに東條も確かにとても頭が切れました」とし、さらに「一人として臆病ではありませんよ。本当に立派な人たちでした」と評価したとする人もいる。(ただし、レーリンクの判決にはこのような事は述べられておらず、本文内容については一次史料にあたって確認の要がある。判決では、広田が裁判にかけられた理由について中国側の要求云々とは書かれておらず、またレーリンクがそのようなことの有無を知り得る立場だったと思えない。また、レーリンクは南京虐殺を理由とする広田の死刑には反対しているものの、太平洋戦争中の捕虜虐待死事件等に関し東条の死刑には賛同し、死刑を免れた海軍の嶋田は太平洋での虐殺事件について死刑にすべきだったとしている。) レーリンクは、他界2年前の1983年の5月、東京大学の大沼保昭教授らが組織して東京で開かれた学会に参加し、末年の考え方を伺える発表文を残している。裁判後にも強大国は理念的、経済的理由を挙げながら軍事的介入を繰り返してきたが、過去日本が犯した侵略行為が正当化されるのではないと明言している。 ウェブ別個意見書. ウェブ別個意見書では多数派と同じく憲章の拘束力を認め、不戦条約によって侵略戦争の不法性を是認した。また天皇の責任について、戦争開始に天皇の許可が必要だったことを主張し、許可しなければ暗殺されたかもしれないというのは理由にならない、それは本来統治者全てが負っているリスクであるとし、また天皇は進言に基づく行動しか取らなかったというのは事実に反し、それは裁判で明らかになっているとした。ただし、天皇を訴追すべきかどうかを言うのは本官の仕事ではない、ただ天皇の免責を踏まえて被告の刑罰を考慮すべきであると主張した。日暮吉延はこれはオーストラリア本国に向けて書かれたものとした。 判決言い渡し. 1948年(昭和23年)7月27日、書記局は同年8月3日から判決文の翻訳を始めることを発表した。翻訳者は希望者の中から選抜されたアメリカ陸軍軍属9人、日本人26人からなり、翻訳作業は鉄条網が張り巡らされた服部ハウス(旧服部金太郎邸)で行われた。翻訳者は秘密保持のため判決文が読了されるまで缶詰め状態となった。 同年11月4日、判決の言い渡しが始まり、11月12日に刑の宣告を含む判決の言い渡しが終了した。判決は英文1212ページにもなる膨大なもので、裁判長のウィリアム・ウェッブは10分間に約7ページ半の速さで判決文を読み続けたという。判決前に病死した2人と病気のため訴追免除された大川周明1人を除く全員が有罪となり、うち7人が絞首刑、16人が終身刑、2人が有期禁固刑となった。 刑の執行. 7人の絞首刑(死刑)判決を受けたものへの刑の執行は、12月23日午前0時1分30秒より巣鴨拘置所で行われ、同35分に終了した。この日は当時皇太子だった明仁親王(現在の上皇)の15歳の誕生日であった。これについては、作家の猪瀬直樹が自らの著書で、皇太子に処刑の事実を常に思い起こさせるために選ばれた日付であると主張している。 その後、7人の遺体は横浜市の久保山斎場で米軍によって秘密裏に火葬され、その後、小型の軍用機で「横浜の東およそ30マイル(約48キロメートル)の地点の太平洋の上空」から洋上に散骨されたことが2021年6月、アメリカの国立公文書館に所蔵されていた米軍文書で明らかになっている。また、遺灰の一部は米軍から回収した三文字正平弁護士らにより、静岡県熱海市の興亜観音に持ち込まれ一時安置の後、1960年に愛知県幡豆町(現:西尾市)にある三ヶ根山の殉国七士廟に祀られている。 未訴追者への裁判と裁判終了. 一方で戦犯容疑者に指定されたものの、訴追が開始されていない者達が未だ残っていた。1948年(昭和23年)1月、ニュージーランドは同年12月31日の時点で戦犯捜査を打ち切るよう主張し、アメリカ側もこれ以上の軍事裁判の継続はほとんど意味がないという見解を示していた。ニュージーランドとアメリカは捜査終了後の翌1949年(昭和24年)6月30日をもって裁判を終了させるべきであるという見解を統一し、首席検察官のキーナンもこれ以上の軍事裁判は行うべきではないという見解を示した。 1948年(昭和23年)7月29日の極東委員会でニュージーランド代表は翌年6月30日に裁判を終了させるべきと提議した。賛成したのはアメリカとイギリスだけであり、その他の国は明確に反対しなかったが、BC級戦犯の裁判については継続を求める声が上がった。この協議中の11月12日に判決が下されており、極東国際軍事裁判は継続されているのかどうかという法的問題が持ち上がった。 1949年(昭和24年)2月18日、極東委員会第五小委員会においてアメリカ代表は、「A級戦犯」裁判は2月4日の時点で終了し、新たな戦犯の逮捕は検討されていないという見解を示した。3月31日の極東委員会において、可能であれば捜査の最終期限を1949年6月30日とし、裁判は9月30日までに終了するという決議が採択された。 裁判以後. 平和条約における受諾. 1951年(昭和26年)9月8日に調印された日本国との平和条約(サンフランシスコ平和条約)第11条において 日本国は、極東国際軍事裁判所並びに日本国内及び国外の他の連合国戦争犯罪法廷の裁判を受諾し、且つ、日本国で拘禁されている日本国民にこれらの法廷が課した刑を執行するものとする。これらの拘禁されている者を赦免し、減刑し、及び仮出獄させる権限は、各事件について刑を課した1又は2以上の政府の決定及び日本国の勧告に基くの外、行使することができない。極東国際軍事裁判所が刑を宣告した者については、この権限は、裁判所に代表者を出した政府の過半数の決定及び日本国の勧告に基くの外、行使することができない。 と定められているが、これは講和条約の締結により戦時国際法上の効力が失われるという国際法上の慣習に基づき、何の措置もなく日本国との平和条約を締結すると極東国際軍事裁判や日本国内や各連合国に設けられた軍事法廷の判決が失効(あるいは無効)となり、当事者の請求により即刻釈放すべき義務を締約国に課されることを回避するために設けられた条項である。 日本国との平和条約第11条の「裁判の受諾」の意味---すなわちこの裁判の効力に関して---をめぐって、判決主文に基づいた刑執行の受諾と考える立場と、読み上げられた判決内容全般の受諾と考える立場に2分されている が、日本政府は後者の解釈を採っている。 戦犯の赦免. 日本国内の国民的運動としては、主に多数をしめる各地のBC級戦犯、特に海外に抑留されたままの収監者を念頭においたものとして、戦犯赦免運動が全国的に広がった(大がかりなものとしては、日弁連がBC級戦犯家族を核に起こしたもの、引揚援護運動団体が担ったもの、広島の婦人団体が行ったものなどが知られている)。1952年(昭和27年)12月9日に衆議院本会議で「戦争犯罪による受刑者の釈放等に関する決議」が少数の労農党を除く多数会派によって可決された。さらに翌1953年(昭和28年)、極東軍事裁判で戦犯として処刑された人々は「公務死」と認定された。 またA級戦犯として収監されていた極東国際軍事裁判による受刑者12名 は、冷戦対立の激化とともに旧連合国主要国の方針変化により1956年(昭和31年)3月末時点ですべて仮釈放された。未だBC級戦犯の収監者が残る中、A級戦犯者が全て釈放されたため、世間では不公平感やむしろ逆ではないかとの意識が強まり、巣鴨のBC級戦犯者(東京裁判当時の右翼活動による収監者だけでなく、釈放運動の要求の一つである内地送還請求の成果として海外から送り返されたBC級収監者の中で相手国から釈放までは認められていない者があらたに収監されていた)も含めた形で戦犯全て釈放すべきだとの声も強まった。 釈放運動の一環としての署名活動は長期にわたって、様々な団体によって行われ、あるものは海外諸国に対し一括して、あるものはフィリピンあるいは共産中国に対してという風に行われたため、複数回署名するものも多かったが、それらの署名は延べ総数で4000万人に達したと言われる。 裁判の評価と争点. 本裁判については裁判中、また裁判以後も批判をふくめ様々な評価がなされており、裁判の公平性やその他の争点をめぐって歴史認識問題のひとつとなってもいる。日本政府は「日本国との平和条約」11条によりこの裁判および他の連合国法廷の裁判を受諾したため、異議を申し立てる立場にないという見解をとっている。 アメリカやヨーロッパなどでは判事や関係者による指摘が起こると共に国際法学者間で議論がされた。イギリスの『ロンドンタイムズ』などは2か月にわたって極東国際軍事裁判に関する議論を掲載した。 アメリカ政府・GHQ要人の発言. GHQのチャールズ・ウィロビーはレーリンク判事に「この裁判は歴史上最悪の偽善でした」「日本が置かれたような状況では、日本がしたようにアメリカも戦争をしていただろう」と述べたという。 国務省ジョージ・ケナンも東京裁判について「法手続きの基盤になるような法律はどこにもない。戦時中に捕虜や非戦闘員に対する虐待を禁止する人道的な法はある」「しかし、公僕として個人が国家のためにする仕事について国際的な犯罪はない。国家自身はその政策に責任がある。戦争の勝ち負けが国家の裁判である。日本の場合、敗戦の結果として加えられた災害を通じてその裁判はなされた」として、戦勝国が敗戦国を制裁する権利がないというわけではないが、「そういう制裁は戦争行為の一部としてなされるべきであり、正義と関係がない。またそういう制裁をいかさまな法手続きで装飾するべきではない」と批判した。 ケナンはさらに、国務省宛最高機密報告書の中で、この裁判は「国際司法の極致として賞賛されている」が、「そもそもの最初から深刻な考え違い」があり、敵の指導者の処罰は「不必要に手の込んだ司法手続きのまやかしやペテンにおおわれ、その本質がごまかされて」おり、東京裁判は政治裁判であって、法ではないと批判した。ただし、ケナンは日本人への同情から述べたのではなく、この裁判を支えている正義を理解する能力が日本人にはないとも述べ、戦犯は終戦時に即刻まとめて射殺した方が適切であったとものべている。 マッカーサーの発言. 東京裁判の事実上の主催者ともいえたダグラス・マッカーサーは、朝鮮戦争勃発直後の1950年10月15日、ウェーキ島でのハリー・S・トルーマン大統領との会談の席で、W・アヴェレル・ハリマン大統領特別顧問の「北朝鮮の戦犯をどうするか」との質問に対し、「戦犯には手をつけるな。手をつけてもうまくいかない」「東京裁判とニュルンベルグ裁判には警告的な効果はないだろう」と述べている。 またマッカーサーは、1951年(昭和26年)5月3日に開かれた上院軍事外交合同委員会において、資源の乏しかった日本が「原料の供給を断ち切られたら、一千万から一千二百万の失業者が発生するであろうことを彼らは恐れていました。したがって戦争にむかった目的は、主として治安のためだったのです」と証言した。この発言からマッカーサー自身が、大東亜戦争は日本の自存自衛のための戦争であったことを認めたものとする主張がある。 またマッカーサーは同委員会で「我々が過去百年間に太平洋で犯した最大の政治的過誤は、共産主義者達が中国に於いて強大な勢力に成長するのを黙認してしまった」ことにあるとも述べている。小堀桂一郎はこの発言を「東京裁判は誤りだった」という認識の、もう一つ別の表現だったと解釈している。 「勝者の裁き」. 首席検察官ジョセフ・キーナンの冒頭陳述「文明の断乎たる闘争」という表現 に基づき、東京裁判に対する肯定論では「文明」の名のもとに「法と正義」によって裁判を行ったという意味で文明の裁きとも呼ばれる。 一方、事後法の遡及的適用であったこと、裁く側はすべて戦勝国が任命した人物で戦勝国側の行為はすべて不問だったことなどから、"勝者の裁き"(英語では「Victor's justice」)とも呼ばれる が、国際法に於いては この表現は日本滞在経験のあるアメリカの歴史学者リチャード・マイニアが1971年の著書『Victors' Justice; The Tokyo War Crimes Trial』(邦訳『東京裁判-勝者の裁き』1985年)で初めて使ったもので、「アメリカの原爆投下行為に人道に対する罪は適用されないのか」と被告の選定、すなわち連合国の戦争犯罪行為が裁かれなかったこと、また、昭和天皇の不起訴だけでなく証人喚問もなされなかったこと、判事が戦勝国だけで構成されたこと、侵略を定義するのは勝者であり従ってプロパガンダになる可能性などを問題視し、したがって侵略戦争を理由に訴追することは不可能であると主張した。レーリンク判事も後にこの裁判は「勝者の裁き」であったとした。 2013年(平成25年)2月12日衆院予算委員会において安倍晋三首相は「先の大戦」の総括は、日本人自身の手ではなく、「東京裁判という、言わば連合国側が勝者の判断によって、その断罪がなされた」と述べた。中華人民共和国政府はこの発言を批判、2013年11月12日に上海で開催された「東京裁判国際シンポジウム」で華東政法大学の何勤華は「東京裁判は人類の正義の力が邪悪な勢力に打ち勝ったことに伴う重大な成果で、正義の法律が日本の罪人を処罰した正当行為」とのべた。また、粟屋憲太郎は「東京裁判の中には誤りもあるが、日本はサンフランシスコ講和条約で判決を受諾して国際社会に復帰できた。それを忘れて『勝者の裁き』というのは誤りだ」と述べた。 裁判では日本側が有利になるような証拠は決定的根拠があっても「証拠がない」として連合国側に棄却され、連合国側の根拠のない伝聞のものは殆ど採用された。本来中立的立場に立つべき判事は全員が戦勝国から選出された。この裁判は戦勝国による復讐ショーに過ぎなかったのである、との見解もある。 共同謀議. ニュルンベルク裁判において用いられた「国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)の指導部やヒトラー内閣、親衛隊という組織」が共同して戦争計画を立てたという「共同謀議」(conspiracy、共謀罪)の論理を、そのまま日本の戦争にも適用した点も問題視されている。起訴状によれば、A級戦犯28名が1928年(昭和3年)から1945年(昭和20年)まで一貫して世界支配の陰謀のため共同謀議したとされ、判決を受けた25名中23名が共同謀議で有罪とされている。 ナチス・ドイツ体制は、たとえば1933年の全権委任法などから総統であるアドルフ・ヒトラーの指導者原理に基づくイデオロギー集団であったナチ党によって一党支配体制が構築されていたものであり、戦前の日本の事情とは異なっている。当時唯一の政党であった大政翼賛会は対立していた旧政党が1940年に合同してできたものであり、ナチ党のような強力な団結は持っていなかった。 また、陸海軍や枢密院、重臣や木戸内大臣などの宮中グループの政治的影響力も強く、これらの間での政見の統一は困難であった。実際の被告中にも互いに政敵同士のものや一度も会ったことすらないものまで含まれていた。この状況を被告であった賀屋興宣(東条内閣の大蔵大臣)は「ナチスと一緒に挙国一致、超党派的に侵略計画をたてたというんだろう。そんなことはない。軍部は突っ走るといい、政治家は困るといい、北だ、南だ、と国内はガタガタで、おかげでろくに計画も出来ずに戦争になってしまった。それを共同謀議などとは、お恥ずかしいくらいのものだ」と評している。このような複雑な政治状況を無視した杜撰ともいえる事実認定に加え、近衛文麿や杉山元といった重要決定に参加した指導者の自殺もあり、日本がいかにして戦争に向かったのかという過程は十分に明らかにされなかった。 ジョージ山岡弁護人は「共同謀議なるものは、最も奇異にして信ずべからざるものの一つである。すくなくとも最近14年間にわたる孤立した関係のない諸事件が寄せ集められ、ならべたてられているにすぎない」と弁護した。 1945年以前の国際法に共同謀議については記載されていなかったという反論に対してウェブ裁判長も別個意見書のなかで「国際法は、多くの国の国内法とは異なって、純粋の共同謀議という犯罪を明示的に含んでいない」「同様に、戦争の法規の慣例も単なる純粋共同謀議を犯罪としない」と認めている。さらに「英米の概念に基づいて、純粋な共同謀議を犯罪とする権限はなく、また各国の国内法において共同謀議とされている犯罪の共通の特徴と認めるものに基づいて、そうする権限もない」とし、もし共同謀議を犯罪とするならば、それは「裁判官による立法」となるとものべている。しかし、多数派判決では共同謀議は罪状として認められた。以前の国際法に記載がなかったにも関わらず審理するということは、法学の原則である「法律なくして犯罪なし、法律なくして刑罰なし(Nullum crimen sine lege, nulla poena sine lege)」に抵触するのかどうかが問題とされていたのであった。 被告人の選定. 被告人の選定については軍政の責任者が選ばれていて、軍令の責任者や統帥権を自在に利用した参謀や高級軍人が選ばれていないことに特徴があった。理由として、統帥権を持っていた天皇は免訴されることが決まっていたために、統帥に連なる軍人を法廷に出せば天皇の責任が論じられる恐れがあり、マッカーサーはそれを恐れて被告人に選ばなかったのではないかと保阪正康は指摘している。 また、保阪は軍令の責任者を出さなかったことが玉砕など日本軍の非合理的な戦略を白日の下に晒す機会を失い、裁判を極めて変則的なものにしたとも指摘している。この他、天皇の訴追回避については、「マッカーサーのアメリカ国内の立場が悪くなるので避けたい」というGHQの意向が、軍事補佐官ボナー・フェラーズ准将より裁判の事前折衝にあたっていた米内光政に裁判前にもたらされている。 判事の選定. 判事(裁判官)については中華民国から派遣された梅汝璈判事が自国において裁判官の職を持つ者ではなかったこと、ソビエト連邦のザリヤノフ判事とフランスのベルナール判事が法廷の公用語である日本語と英語のどちらも使うことができなかったことなどから、この裁判の判事の人選が適格だったかどうかを疑問視する声もある。A級戦犯として起訴され、有罪判決を受けた重光葵は「私がモスクワで見た政治的の軍事裁判と、何等異るなき独裁刑である」と評している。 法的根拠と公平性. 管轄権. 極東国際軍事裁判所条例は国際法上は占領軍が占領地統治に際してハーグ陸戦条約第三款においても許可されてきた軍律審判に相当し、軍律や軍律会議は軍事行動であり戦争行為に含まれる。また戦争犯罪の処罰を要求するポツダム宣言10項(および7項)を受諾したことにより、連合国の裁判権に服し、彼らの採用する法規によって裁かれうることになる(連合国側の軍法・軍律・一般法令だけでなく、日本側のそれらを代理行使することもありうる)。尤も、高級軍人等の交戦法規違反について審判する点についてはまだしも、言論人や国務大臣等がそれらの立場で過去におこなった行為や謀議、あるいはその思想に対して審判が行われたことは異例であった。戦争犯罪の処罰についてはポツダム宣言10項で予定されていたが、国際法上認められてきた従来の戦争犯罪概念が拡張され検討されたことに特徴がある。 キーナン検事は、来日直後、報道陣の質問に答えて裁判で適用されるのは文明国の慣習法となるであろうとした。 裁判中に管轄権忌避動議として持ち出された実定法上の裁判管轄権の根拠につき、ウェッブ裁判長は弁護側の動議を却下した上で、理由は後で回答するとしたまま保留され、最後に判決とともに開示されることとなったが、極東国際軍事裁判所自体は、まず、その根拠を「裁くことは認められない」との主張は極東国際軍事裁判所条例によって裁判所自体が却下しなければならないとの形式論で処理した。その上で、しかしながら裁判所の権能も無制約ではなく国際法の範囲によるとし、補足的に、実体的な正当性の根拠として、ニュールンベルク裁判にならって、裁判所条例は既に存在する国際法を表示したものであること、1928年のパリ不戦条約に調印または加盟した国は国家政策の手段として戦争を起こした国は国際法違反であること、また多くの国で国家の代表者といえど個々人が国家行為であることを理由に法違反を犯すことは認められていないことを理由とした。回答が遅れた理由については、ウェッブが実体的な根拠を示すことにこだわった事に対し他の裁判官がそれに理由内容も含めて否定的で意見が纏まらなかったこと、ウェッブが一部裁判官の画策により一時帰国する事態に至った(当時、日本の報道陣の一部ではウェッブが正当性根拠があげられず逃げたように受けとめた向きもあった。)こと等が、挙げられている。 なお、仮に国際実定法上に根拠がなく前例のない国際刑事法廷であったと仮定した場合、法廷そのものの管轄権に実定法上の根拠がない「事後法」により設置され、また連合国側の戦争犯罪は敗戦国側は事実上法廷では提訴する権利や機会がなく「法の下の平等」がなされていないのではないかという問題がある。 また、証人の全てに偽証罪も問われず、罪刑法定主義や法の不遡及が保証されなかったという意見がある。 こうした欠陥の多さから、極東国際軍事裁判とは「裁判の名にふさわしくなく、単なる一方的な復讐の儀式であり、全否定すべきだ」との意見も少なくなく、次段のとおり国際法の専門家の間では本裁判に対しては否定的な見方をする者も多い。当時の国際条約(成文国際法)は現在ほど発達しておらず、当時の国際軍事裁判においては現在の国際裁判の常識と異なる点が多く見られた。ただし、罪刑法定主義や法の不遡及は国際法を構成する要素として重要な慣習法という概念に真っ向から対立するので、法の不遡及に強く拘るなら、国際法自体がその存在を否定されることになると本田稔は指摘する。 国際法学者ハンス・ケルゼンは「戦争犯罪人の処罰は、国際正義の行為であるべきものであって、復讐に対する渇望を満たすものであってはならない。敗戦国だけが自己の国民を国際裁判所に引き渡して戦争犯罪にたいする処罰を受けさせなければならないというのは、国際正義の観念に合致しないものである。戦勝国もまた戦争法規に違反した自国の国民にたいする裁判権を独立公平な国際裁判所に進んで引き渡す用意があって然るべきである」と敗戦国のみに対する戦争裁判を批判した。 国際法学者クヌート・イプセンは「平和に対する罪に関する国際軍事裁判所の管轄権は当時効力をもっていた国際法に基づくものではなかった」とし、戦争について当時個人責任は国際法的に確立しておらず、事後法であった極東国際軍事裁判条例は「法律なければ犯罪なし」という法学の格言に違反するものであったとした。ミネソタ大学のゲルハルト・フォン・グラーンもパル判事の意見を支持し、当時パリ協定の盟約・不戦条約があったとはいえ主権国家が「侵略戦争」を行うことを禁止した国際法は存在せず、「当時も今日も、平和に対する罪など存在しないことを支持する理由などいくらでも挙げることができる」とのべている。 イギリスの内閣官房長官でもあった は国際連合裁判所についての規定「何人も、実行の時に国内法又は国際法により犯罪を構成しなかった作為又は不作為のために有罪とされることはない」(世界人権宣言第11条第2項) を引合いに出し、「戦勝国の判事のみでもって排他的に構成された裁判所」は「独立の公平な裁判所」とはいえず、枢軸国犯罪人を早急に裁くために設定された裁判所条例や、事後になって犯罪を創設したことは、世界人権宣言第11条第2項規定と相容れず、ドイツと日本の軍事裁判が「法の規則を設定したという価値は取るに足りぬようにおもわれる。むしろ、重大な退歩させたというべきである」と述べている。しかし、世界人権宣言が採択されたのは1948年12月10日であり東京裁判の後である。 歴史学者ポール・シュローダーは「裁判所の構成、政治的状況、さらに戦後まもない時期の世論の趨勢が一体化して、事件についての冷静で均衡のとれた判決を不可能にした」「歴史家はもしかすると、(裁判所が達した)結論が国際法と正義の発展において多大な前進であったという点については疑わしく思うだろう」と指摘した。 ロンドン大学のジョン・プリチャードは次のように東京裁判の問題点を摘出している。 第一次世界大戦終結後に戦勝国が敗戦国の指導者を裁くことが国際的に協議された際に、米英仏日伊の5か国は1919年のパリ講和会議に先だって行われた平和予備会議において報告書をまとめ、「戦争の法と慣習ならびに人道の法に違反した敵国民はすべて、その階級の相違に関わりなく、元首を含めて刑事訴追を受ける可能性がある」として国家元首を含む戦争開始者の訴追の余地を明示した。一方で同報告書では「平和的口実のもとに隠蔽され、次いで誤った理由で宣言された侵略戦争の開始は、公衆の良心が非難し、歴史が弾劾する振舞いではあるが、平和維持のためのハーグにおける諸制度の純粋に選択的な性格からすれば、侵略戦争は実定法に直接違反する行為とはみなされないかもしれ」ないとし、「侵略戦争は不正ではあるが違法ではないという地点に逆戻りした」観があった。そして締約されたヴェルサイユ条約においては「国際道義と条約に対する最高の罪を犯した」として前ドイツ皇帝ウィルヘルム2世を訴追するという第227条に反映されており、第一次世界大戦終結に関わる国際条約の時点で侵略戦争を国際犯罪と見なそうとする動き(前例)があったことが知られている。なおウィルヘルム2世自身はオランダに亡命し裁判は行われなかったものの、一部の者については裁判、処罰が行われている。 多数意見である極東国際軍事裁判判決書においては、「この条約の批准に先立って、締約国のあるものは、自衛のために戦争を行う権利を留保し、この権利のうちには、ある事態がそのような行動を必要とするかどうかを、みずから判断する権利を含むと宣言した。国際法にせよ、国内法にせよ、武力に訴えることを禁じている法は、必ず自衛権によって制限されている。自衛権のうちには、今にも攻撃を受けようとしている国が、武力に訴えることが正常であるかどうかを、第一次的には自分で判断するという権利を含んでいる。ケロッグ・ブリアン条約(パリ不戦条約)を最も寛大に解釈しても、自衛権は、戦争に訴える国家に対して、その行動が正当かどうかを最後的に決定する権限を与えるものではない。右に述べた以外のどのような解釈も、この条約を無効にするものである。本裁判所は、この条約を締結するにあたって、諸国が空虚な芝居をするつもりであったとは信じない」 とし、弁護側の主張を却下している。 事後法の観点. ラダ・ビノード・パール判事の意見書のように、第二次世界大戦の戦後処理が構想された際、アメリカが1944年(昭和19年)秋から翌年8月までの短期間に国際法を整備したことから、国際軍事裁判所憲章以前には存在しなかった「人道に対する罪」と「平和に対する罪」の2つの新しい犯罪規定については事後法であるとの批判や、刑罰不遡及の原則(法の不遡及の原則)に反するとの批判がある。また、戦後処罰政策の実務を担ったマレイ・バーネイズ大佐は、開戦が国際法上の犯罪ではないことを認識していたし、後に第34代大統領になるドワイト・D・アイゼンハワー元帥も、これまでにない新しい法律をつくっている自覚があったため、こうした事後法としての批判があることは承知していたとみられている。 しかし、フランスや日本といった大陸法系の考えでは、行為時に成文として存在しない法律を根拠に処罰されれば事後法に該当するが、アメリカやイギリスといった英米法の考えでは、行為時に成文法でとして禁止されていない行為であってもコモン・ロー上の犯罪として刑罰を科すことが可能であり、それは事後法には該当しない。まず、慣習法も実定法の一つであり、これについては、世界的に慣習法での処罰が長らく行われ、現在でもまだ実際に存在することもあってか、法学者間にもあまり異論を見ない。さらに英米法の考えでは、過去の判決の集積などから導き出された法原理による判決であれば、必ずしも具体的な判例がある必要はなく、それは事後法に反しないとする考え方がなされる。その一般的な法原理によるとする認定が正しいかどうかは、英米法では手続きの適正さによって保障されるとする。また、第二次世界大戦の以前にはすでに平和を破壊する行為が違法であることが、主に慣習法として、もしくはヴェルサイユ条約やパリ不戦条約など一部の条約において既に確認されていたという意見もある。第一次大戦後、「前」ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世がオランダに亡命したため結局は裁かれなかったものの戦争責任で訴追されており、また、その臣下らには実際に裁かれた者もいたことから、。東京裁判では、あくまで補足的根拠としてだが実体的根拠については、パリ不戦条約の存在を事後法ではない根拠としている。日本においても、軍律は死刑などもありながらあくまで行政処分の一種という考えで、遡及適用がありうるとされていたようである 。東京裁判も法廷形式をとってはいるが、議会等の定めた軍法によらず、行政府の定めた軍律による軍律会議であり、行政処分である。また、当時敗戦までの一時期存在したナチス法理論では事後法は必ずしも否定されておらず、東京裁判の参加国の一つであるソ連の社会主義法理論においても同様である。 不作為責任. 通例の戦争犯罪との関連で指摘されている問題点は、部下の戦争犯罪に関する軍指揮官の「不作為責任」という概念である。軍指揮官(上官)の部下に対する監督義務違反の可罰性は「上官責任 (Command Responsibility)」という概念として形成され、いくつかのBC級戦犯裁判において大きな争点となっており、東京裁判においても重要な意義を有していた。 第二次世界大戦当時の国際慣習法では、指揮・命令をした者だけを問題にし、不作為犯に責任を負わせるまでには至っていなかった。国家が戦争を遂行する中で犯される犯罪は、実際に犯罪を実行する者が末端の兵士であるとしても組織の問題であって、組織の上層部の責任が問われるのは当然である。しかしこれが認められ国際条約として不作為による戦争犯罪に刑事処分を科す旨を定めたのは「戦争犯罪及び人道に反する罪についての時効不適用に関する1968年の条約」のことであったとされる。 証拠規則. ジョン・ダワーは「この裁判が公正であったかどうかについての意見の相違は、軍事法廷の手続きとしてなにを適切と考えるかという前提の違いに表れる。陸軍長官スティムソンでさえ、一般の法廷でふつうにある、さらには軍法会議にもあるような、訴訟手続き上の規則や保証もなしにこのような裁判が行われるとは想像だにしなかった。軍事法廷、あるいは軍事委員会の手法が採用されたのは、そうすることで、検察側にほかの状況では許されない手続き上の裁量が、とくに証拠の証拠能力有無の裁量が可能になるからである」とし、連合国は被告の主張を正当化することを妨害するために、証拠に関して制限を加えたと指摘し、「勝者によって緩められた証拠規則が、裁判に恣意性と不公正の入りこむ余地を与えた」ことは明らかであると批判した。 極東国際裁判所条例13条に「本裁判において証明力あると認むるいかなる証拠をも受理する」とあり、英米法の証拠規則ほど厳格ではなかった。その一方で、手続きは英米法の考えによるとしたものの、一身の安全を図りたい被告人と治安維持の目的を達成したい原告人のゲームと捉えられる面もある英米法の手続きに対して、東京裁判は侵略や戦争中の不法行為の実態を明らかにするという目的も有していたため、証明力・信憑性があるかという観点からある程度変えられるのは当然という考え方もある。 協議の経過. ベルナール判事は、裁判後「すべての判事が集まって協議したことは一度もない」 と東京裁判の問題点を指摘した。 オランダからのベルト・レーリンク判事は当初、他の判事と変わらない日本側でよく言われる「戦勝国としての判事」としての考え方を持っていたとされるが、大陸法系の考えが強い彼は他の英米法系の裁判官と考えが異なっており、パール判事の反対意見を書くという考えに影響を受け、自身も反対意見として表明することにしたといわれる(ただし、彼自身の判決中の考えはパール判事の考えとは全く異なる)。「多数派の判事たちによる判決はどんな人にも想像できないくらい酷い内容であり、私はそこに自分の名を連ねることに嫌悪の念を抱いた」とニュルンベルク裁判の判決を東京裁判に強引に当てはめようとする多数派の判事たちを批判する内容の手紙を1948年7月6日に友人の外交官へ送っている。ただし、レーリンク自身、後に東京裁判当時は国際法に関してはまだ素人同然だった事実を認めたうえで、当時ユトレヒト大学でオランダ領東インドの刑法について教えていたので、アジアの事を多少は知っているだろう、といった理由だけで選ばれた、と述懐している。 「A級戦犯」. A級戦犯容疑者として逮捕されたが、長期の勾留後不起訴となった岸信介や笹川良一らについても、有罪判決を受けていないにも関わらず、日本国内のメディアや言論人のみならず欧米にさえ今日に至るまで「A級戦犯」と誤って、もしくは意図的に呼ぶ例が少なからず見受けられる。こうした用語法は、連合国の国民のみならず日本国民においてさえ、この裁判をめぐる議論において、「初めに有罪ありき」の前提で考える人が少なくないことを示しており、東京裁判肯定論、ひいては裁判そのものに対する不信感を醸成している。 この判決について、東條・木村をはじめ、南京事件を抑えることができなかったとして訴因55で有罪・死刑となった広田・松井両被告を含め、東京裁判で死刑を宣告された7被告は全員がBC級戦争犯罪でも有罪となっていたのが特徴であった。これは「平和に対する罪」が事後法であって罪刑法定主義の原則に逸脱するのではないかとする批判に配慮するものであるとともに、BC級戦争犯罪を重視した結果であるとの指摘がある。とくに松井は訴因55(通常の戦争犯罪・BC級)で、また武藤は訴因54と55で有罪を宣告されており、「A級戦犯」としても起訴されたものの「BC級戦犯」としてのみ有罪となったものである。 実際には、有罪無罪と死刑にするかどうかはそれぞれ多数決で決められており、裁判で多数をしめる英米法系の裁判官の法感覚が結果に大きく影響している。英米法では保護責任者の不作為による致死は故殺の一類型であり、この当時の英及び英領植民地の殆どで死刑判決を免れない罪であった。木村は勿論、東条(死刑反対が4票あり、あと2票で死刑を免れた)も事実上泰緬鉄道での捕虜の多数死の管理責任を問われ、広田は南京事件での虐殺制止に動かなかったことが過半数の死刑支持に繋がったと考えられる。判決前には、報道陣の間で捕虜殺害などに関わってなければ死刑にならないらしいという観測が出て、日本の感覚で木村や広田は死刑にならないという噂が広がったことが逆に裏付けている。 死刑の扱いについて. 死刑は多数決によって決まった。11人の裁判官の内、インドのパールは事後法の禁止や国家行為であることなどを理由にしつつも多分にその専門としていたヒンズー法哲学の思想と価値観から比較的早くから全員無罪論をとり、判決文書きに専念していたとされる。 ソ連はもともと社会主義者の中に死刑廃止といった理想論があったが、過酷な反革命の内戦や諸外国からの干渉戦争により、死刑が行われていた。戦争終結によりスターリンは平和と共産主義の理想を表向きアピールするために死刑を廃止、ザリヤノフは自国で死刑を廃止したことを理由に被告人に死刑を適用しないこととした。オーストラリアのウェッブは本来殺人への死刑適用が苛烈なイギリス系の国であるが、彼自身が最大の責任者である可能性があると考える天皇が訴追されていないこと、ナチスの行為にくらべれば軽くそれとの比較から、これで被告人に死刑を科するのはバランスを失するとして被告人らに死刑を適用しないこととした。AP通信のホワイト特派員がアメリカからの情報として、ウェッブが死刑を適用しない理由として自国で死刑を適用していないことを報じているが、これはホワイト特派員かその情報提供者のいずれかがソ連の話を混同したものだと思われる。(この頃、オーストラリアではいずれの州や連邦でも死刑は廃止されておらず、各州で廃止され出したのはイギリスにやや遅れて1960年代後半の死刑廃止運動以降である。) また、ウェッブの判決書でも死刑を科さない理由として天皇不起訴との関係しか書かれていない(ただし、報道陣には判決後にナチスと比べれば悪質性がまだ低いので差をつける必要性についても語っている)。この3人を絶対非死刑論者として、オランダのレーリンク、フランスのベルナールが日本と同じ大陸法の国で法感覚が共通すること、また、両国とも戦後の植民地回復を目指しており、その帝国主義的な国民感情が意識に入り込むことが避けられなかったのか、日本側に比較的理解を示している。 東京裁判を取材する報道陣の間では、判決が近づくにつれ、関係者の取材から得た情報か、虐殺などに関わっていなければ死刑はないだろうとの観測が出ていた。結果を見ると、この観測自体は当たっていたのだが、日本と英米法の殺人の概念に違いがあり、報道陣多くの理解に反し、木村と広田は死刑となった。また、きわどいと見られていた嶋田は、太平洋での虐殺が果たして軍中枢の指示があったものか証明が難しく事実認定の問題で虐殺の責任は免れた。 日本での評価. 左派勢力からは、本裁判の結果を否定することは「戦後に日本が築き上げてきた国際的地位や、多大な犠牲の上に成り立った『平和主義』を破壊するもの」、「戦争中、日本国民が知らされていなかった日本軍の行動や作戦の全体図を確認することができ、戦争指導者に説明責任を負わせることができた」 として東京裁判を肯定(もしくは一部肯定)する意見もある。 また、もし日本人自身の手で行なわれていたら、もっと多くの人間が訴追されて死刑になったとする見解もある(ただし、東条英機ら被告は国内法・国際法に違反したわけではないと主張する見解もある)。日本におけるマスコミの論調、国民の間では、占領期を含めてかなり後まで「むしろ受容された形跡が多い」という。宮台真司はこの裁判を、昭和天皇と日本国民の大部分から罪を取り除いて戦後の復興に向けた国際協力を可能にするために、もっぱらA級戦犯が悪かったという「虚構」を立てるものだったと位置づけ、A級戦犯だけが悪かったわけではないにせよ、虚構図式を踏襲するべきだと主張した。 「東京裁判史観」. 東京裁判史観とは、東京裁判の判決をもとにした歴史認識のことで、満洲事変からいわゆる「太平洋戦争」にいたる日本の行動を「一部軍国主義者」による「共同謀議」にもとづいた侵略とする点を特色とする。この史観は連合国軍総司令部民間情報教育局により昭和20年末から新聞各紙に連載された「太平洋戰爭史」によって一般に普及した。この史観は、「勝者の裁き」に由来する押しつけられた歴史認識として保守派から批判があり、また昭和天皇や731部隊の戦争責任が免責されたため進歩派からも問題点を指摘されている。 秦郁彦によれば、1970年代に「東京裁判史観」という造語が論壇で流通し始めた。東京裁判の否定論者は、東京裁判が認定した「日本の対外行動=侵略」という歴史観と、それに由来する「自虐史観」に反発の矛先を向けているという。秦は渡部昇一(英語学)、西尾幹二(ドイツ文学)、江藤淳・小堀桂一郎(国文学)、藤原正彦(数学)、田母神俊雄(自衛隊幹部)といった歴史学以外の分野の専門家や、非専門家の論客がこうした主張の主力を占め、「歴史の専門家」は少ないと指摘している。 これらの論者があげる裁判そのものへの批判としては以下のような主張がある。 また江藤淳によればGHQは占領下の日本においてプレスコードなどを発して徹底した検閲、言論統制を行い、連合国や占領政策に対する批判はもとより東京裁判に対する批判も封じた。裁判の問題点の指摘や批評は排除されるとともに、逆にこれらの報道は被告人が犯したといわれる罪について大々的に取上げ繰返し宣伝が行われた(ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム)とも主張している。ただし、GHQからメディアに対し宣伝するようにとの具体的な圧力があったとの話はとくに聞かれない。また、占領下で一般にGHQ批判が許されなかったのは事実だが、裁判自体は、路上であればとても言う事が許されないようなことを被告側は堂々と主張していると評される状態であった。 秦は裁判の否定論者が「好んでとりあげる論点」として以下の例を挙げている。
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宇津駅
宇津駅(うつえき)は、かつて北海道(網走支庁)紋別郡興部町字宇津に設置されていた、北海道旅客鉄道(JR北海道)名寄本線の駅(廃駅)である。事務管理コードは▲122111。 駅構造. 廃止時点で、1面1線の単式ホームを有する地上駅であった。プラットホームは、線路の南西側(遠軽方面に向かって右手側)に存在した。そのほか旧貨物線線である、名寄方から駅舎側に分岐し駅舎西側のホーム切欠き部分への側線を1線有した。かつては2面2線の相対式ホームを有する、列車交換可能な交換駅であった。交換設備運用廃止後は線路は撤去されたが、ホーム前後の線路は転轍機の名残で湾曲していた。 無人駅となっていたが、有人駅時代の駅舎が残っていた。駅舎は構内の南西側に位置し、ホーム中央部分に接していた。開業以来の古い木造駅舎であった。 駅名の由来. 当駅が所在した地名より。アイヌ語の「ウッ」(肋骨、転じて横の川)に由来している。 「ウッ」、あるいは「ウッナイ」(肋骨・川)に由来する地名・駅名は北海道内各地にある(宗谷本線歌内駅など)が、本流の両岸から小さい支流が流れ込む様を、背骨とあばら骨にたとえた地名である。 駅跡. 2000年(平成12年)時点で空地となっており、駅までの舗装道路のみが残存していた。2010年(平成22年)時点でも同様で、2011年(平成23年)時点でも更地であり何も残っていなかった。
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ハッピーバースデー 命かがやく瞬間
『ハッピーバースデー〜命かがやく瞬間〜』(ハッピーバースデー いのちかがやくとき)は、青木和雄による児童書。1997年12月に金の星社から刊行。以降、コミック化やアニメ映画化(1999年公開)、ドラマ化(2009年放映)もされており、2005年には文芸書版として刊行されている(文芸書版は『ハッピーバースデー』と改題されており、作者は青木和雄と吉富多美)。原作は65万部、文芸書版は50万部を突破。 あらすじ. あすかは母・静代から精神的虐待を受け続けていたが、それでも「母に愛されたい」と思っていた。しかし、あすかの11歳の誕生日に兄・直人から暴言を吐かれ、その直後に母親の非情な言葉を聞いたショックから声を失ってしまう。「生まれてこない方がよかった」とまで思うほど追いつめられるあすかだったが、祖父母の無償の愛によって心の傷を癒し、人々との出会いや別れによって多くのことを学び、成長していく。そして、あすかのその姿を見て、あすかを顧みようとしなかった家族も自分たちの過ちに気づき、自分自身の心を見つめ直し、あすかのことを受け入れていくようになる。 鍵となる設定. 宇都宮の祖父母の家には、春野(モモ)・直人(ナシ)・あすか(アンズ)の誕生記念の木が植えてあるが、静代の木はない。静代が生まれた日に春野の手術があり木を植えることができなかったというのが理由であり、その後も改めて植えることもしなかったことから、いかに彼らが春野のことにばかり目がいっていたかを表している。文芸書版では、あすかが療養を終えた後、静代の誕生の木としてコブシを植えようとする描写が登場する。 静代は一度だけ両親との団欒を過ごしたことがあったが、その際入院中の春野の危篤の連絡を受けた静代は、自分と両親との数少ない団欒を両親が病院に行くことでぶち壊されるのが嫌だったため、両親にそのことを告げなかった。結果、春野は家族に看取られず独りで亡くなり、この団欒を最後に静代は好物だった水蜜桃を食べなくなり、モモが嫌いになる。 アニメ映画. 1999年に公開。 ラジオドラマ. 2007年1月22日から同月26日まで、NHK-FM放送の「青春アドベンチャー」枠において『ハッピーバースデー』のタイトルでラジオドラマが放送された(全5回)。ストーリーは、文芸書版を元にしている。 舞台. 株式会社フリーダムエンタテイメント(演劇集団フリーダム)によって、2007年7月13日の九州の学校巡演を皮切りにスタートした。この作品には、ミュージカル版とストレートプレイ版が存在し、ミュージカル版は児童書版がベースとなっており、ストレートプレイ版は文芸書版がベースとなっている。2008年11月に第1回福岡市民参加型ミュージカルとして始まった市民参加型ミュージカルは、2010年に第2回福岡市民参加型ミュージカル、2011年には東京都民参加型ミュージカルとして発展している。 朗読劇. 神奈川県で11月の児童虐待防止推進月間で行われ、他に春先の時期や他の県でも公演されている。出演者はすべて賢プロダクション所属の声優および付属養成所の研修生。いずれもチャリティによるもので、収益金は「神奈川子ども未来ファンド」他、に寄付されている。 オーディオブック. 2009年11月20日よりオーディオブック配信サービスのFeBeより配信。 テレビドラマ. 2009年11月21日の21:00 - 23:10 (JST) に、フジテレビ開局50周年3夜連続スペシャル『探そう!ニッポン人の忘れもの』第2夜の位置付けで、かつ『ハッピーバースデー』というタイトルのスペシャルドラマとして『土曜プレミアム』枠内で放送された。視聴率10.9%。 朗読×芝居×映像×音楽. 2016年11月9日から2016年11月15日にアトリエファンファーレ高円寺にて公演。MASTERPIECE THEATER企画制作、株式会社スタンダードソング主催で、朗読・芝居・映像・音楽の要素を融合した演出で舞台化された。
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池田達哉
池田 達哉(いけだ たつや、1988年5月18日 - )は、兵庫県出身の元サッカー選手。現役時代のポジションはディフェンダー(センターバック)。 来歴. 中学生時代からガンバ大阪の下部組織に所属。ユース時代の同期には下平匠や倉田秋らがいた。2006年にはU-18日本代表に選出され、2006年にはトップチームに2種登録されるなど期待されたが、トップチーム昇格は叶わなかった。 2007年、Jリーグ・大分トリニータに加入。入団から3年間はナビスコ杯と天皇杯に1試合ずつ出場した以外に試合出場が無くJ2に降格した2010年も序盤戦はほとんど出場機会を与えられなかった。が、終盤に3バックにフォーメーション変更をするとその一角に起用されるようになり最後の最後でレギュラーとなった。翌2011年は16試合に出場したオフに契約満了となった。 2012年、JFL・佐川印刷SCに完全移籍した。 2016年、JFL・ヴェルスパ大分に完全移籍。同シーズン終了後に現役を引退した。 2018年、新たに発足したジェイリースFCに加入し、2年振りに現役に復帰した。2022年を以て再び現役を引退。 個人成績. 0||0||1||0||1||0||2||0 26||0||colspan="2"|-||1||0||27||0 80||5||colspan="2"|-||1||0||81||5 106||5||1||0||3||0||110||5
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リオネル・スカローニ
リオネル・セバスティアン・エスカローニ(Lionel Sebastián Scaloni, , 1978年5月16日 - )は、アルゼンチン・ロサリオ出身の元サッカー選手、現サッカー指導者。アルゼンチン代表監督。ポジションはMF、DF。 イタリア系の名字で、スカローニと表記されることが多いが、スペイン語には「sc」の音から始まる言葉が存在しないため(たとえば、スカンジナビアはエスカンディナビアとなる)便宜上「esc」の音で発音する。そのためエスカローニと表記する方が好ましい。 2022 FIFAワールドカップでの、最年少監督(44歳)である。 経歴. クラブ. クラブチームでは長くスペインのデポルティーボ・ラ・コルーニャに在籍していたが、2006年1月、出場機会の減少を理由にFAプレミアリーグのウェストハム・ユナイテッドに期限付き移籍した。半年後復帰したものの、同年8月、同僚のディエゴ・トリスタンと共に事実上の戦力外通告を受け、ラシン・サンタンデールと1年の契約を結んだ。さらに2007年、セリエAのSSラツィオに活躍の場を求めたが、わずか半年あまりでRCDマヨルカに期限付き移籍、スペインに復帰した。 2009年7月、ラツィオに復帰。2011-12シーズンは19試合に出場したものの、レギュラーを掴むまでには至らず、2013年1月にアタランタBCへ完全移籍した。 2015年6月30日、現役引退。 代表. 1997年にマレーシアで開催されたFIFAワールドユース選手権の優勝メンバー。A代表デビューは2003年4月30日に行われた親善試合、リビア戦だが、代表に定着することはなかった。しかしながら、2006 FIFAワールドカップでは、ユース時代の恩師であるホセ・ペケルマンが監督を務めたアルゼンチン代表にも選ばれ、1試合に出場した。 指導者. 2018 FIFAワールドカップでの惨敗を受け、ホルヘ・サンパオリ監督が解任され、2018年8月2日に前政権下でアシスタントコーチを務めていたスカローニが暫定的に指揮を執ることとなった(U-20代表監督との兼務)。暫定監督期間中での成績が評価され、2019年11月29日に正式な監督として延長オプション付きの契約を結び、コパ・アメリカ2019では大会3位に同代表を導いた。 2大会目のコパ・アメリカとなるコパ・アメリカ2021では、決勝でブラジル代表を1-0で下し、アルゼンチン代表に28年ぶりのコパ・アメリカ優勝トロフィーをもたらした。2021年11月にはFIFAの年間最優秀監督賞にもノミネートされたが、最終候補3人の段階で惜しくも選外となった。 2022年6月1日、フィナリッシマにて、UEFA EURO 2020王者となったイタリア代表と対戦し、3-0で勝利した。 2022年11月22日、カタールワールドカップのグループステージ(C組)第1節でサウジアラビア代表に1-2で敗れ連続無敗記録が36試合でストップした。 2022年12月8日、準々決勝オランダ戦の前日会見にてスペインや日本が大苦戦したPK戦について「トレーニングの後、選手は常にPKの練習をしている。しかし、試合になればゴールはマッチ箱のようになる」と独特でなおかつユーモラスある言い回しで難しさを表現した。決勝ではフランス相手にPK戦で勝ち、36年振りのワールドカップタイトルに導いた。
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ノーデンス
ノーデンス(Nodens)は、創作神話群であるクトゥルフ神話などに登場する神。既存の神をモデルにしているが、別個のキャラクターと化している。 クトゥルフ神話的には「旧神」(Elder Gods)の一柱とされることが多い。 ラヴクラフトのノーデンス. ハワード・フィリップス・ラヴクラフトの幾つかの作品に登場する神格である。「大いなる深淵の主」(Lord of the Great Abyss)とも、「大帝」とも呼ばれる。 初登場作品は、『霧の高みの不思議な家』(執筆1926年、発表1931年)。マサチューセッツ州の港町キングスポートには、「大いなる深淵」という異界につながる館があり、ノーデンスが訪れる。ノーデンスは白髪と灰色の髭をもつ老人の姿をしており、イルカの引く巨大な貝殻チャリオットに騎乗する、海の神のような性格を持つ。 『未知なるカダスを夢に求めて』(執筆1926-1927年、没後発表1943年)では、ドリームランドの地下に広がる暗黒世界「大いなる深淵」を治めている。ドリームランドでは神族の秘密を探ることはタブーとされており、禁忌を冒そうとする不埒者を、ノーデンスは夜鬼を使役して妨害する。それさえなければ、人間族に対しては比較的好意的な神である。ノーデンスとナイアーラトテップはライバル関係にあり、両者は異なる思惑を以て神族を保護している。この作品はラヴクラフトの楽しみとして書かれたとされ、他の作品とは異なり「救世主」的な役回りでノーデンスが登場している。 『霧の高みの不思議な家』にて、ノーデンスは「エルダー・ワン(古きもの)」と関係ある存在とされている。この「エルダー・ワン」という曖昧な語が何を指すのかはわからないが、後年、オーガスト・ダーレスが『潜伏するもの』にて「エルダー・ワン」などを旧神を表現する言葉として用いる。 神ノドンス. ローマ領イングランドで信仰された癒しの神ノドンスがモデル。 アーサー・マッケンは『パンの大神』の中でケルト神話の神「ノーデンス」に言及しているが、ラヴクラフトはこれから着想を得てノーデンスを産みだしたと考えられている。もっともラヴクラフト作品のノーデンスの性質はマッケンのパンの大神とは大きく異なっている。 また、ケルトの別の神であるヌアザをノドンス(ノーデンス)と同一視する説がある。 ノーデンスの分類. こんにちでは、ノーデンスは旧神にカテゴリされることが多い。だが、かつてはそうではなかった。 旧神を創造したのはオーガスト・ダーレスである。彼はラヴクラフトの影響を受けてクトゥルフ神話を自分なりにアレンジし、独自に「旧神」を創造したが、当初は旧神に具体的な名前を持たせなかった。そこにファンであったフランシス・レイニーが、1943年の『クトゥルー神話小辞典』という設定をまとめた資料において、ノーデンスを唯一名前のわかっている旧神とした。本設定をダーレスが輸入し、『破風の窓』という作品でノーデンスを旧神とする。 リン・カーターはレイニー説を全肯定せずに、1956年の『クトゥルー神話の神神』にてノーデンスを地球本来の神々とした。しかし後に自説を変えて、ノーデンスとクタニドを旧神に位置付けている。 TRPG『クトゥルフの呼び声』の初期バージョンでは、ノーデンスは外なる神に分類されていた。この頃のTRPGでは、そもそも旧神設定自体が採用されていなかった。後にTRPGでも旧神とされた。また『コールオブクトゥルフd20』にて、先述のノーデンス=ヌアザ説が取り入れられている。 かつては名前のわかっている旧神はノーデンスだけとされていた時代もあったが、旧神の設定が充実したことで、状況は変わっている。 ノーデンスの敵. ノーデンスのライバルとして筆頭に挙げられるのはナイアーラトテップである。旧神ノーデンスvs邪神(旧支配者・外なる神)ナイアーラトテップという構図である。だが執筆年という事情があるため、ラヴクラフトの『未知なるカダスを夢に求めて』が執筆された時点では、旧神vs旧支配者の構図にはなり得ない。当該作品において、ナイアーラトテップは蕃神であり、またノーデンスのカテゴリがはっきりしない。レイニーとダーレスが、ナイアーラトテップを旧支配者に、ノーデンスを旧神にカテゴリしたことで、遡って、旧神ノーデンスvs旧支配者ナイアーラトテップという構図が成立している。 ヨグ=ソトースをノーデンスのライバルとしているのは、ダニエル・ハームズの『エンサイクロペディア・クトゥルフ』である。ノーデンスvs邪神(外なる神・旧支配者)ヨグ=ソトースという構図となっている。ハームズは旧神カテゴリに懐疑的で、ノーデンスを旧神と断言しておらず、他にも混沌とした設定群が整理されていない。 その他. ハドソンのゲームであるアースライトでは、最強クラスの能力を持つ宇宙戦艦にノーデンスの名が付けられている。 脚注. 【凡例】
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劉暁波
劉 暁波(りゅう ぎょうは、1955年12月28日 - 2017年7月13日)は、中華人民共和国の著作家。元北京師範大学中国語言文学系講師。民主化運動を始め広範な人権活動に参加し、度々投獄された。4度目の投獄中の2010年、ノーベル平和賞を受賞。服役中のまま2017年に死去した。 人物. 生い立ち. 吉林省長春市生まれ。1969年、上山下郷運動が行われている間、父と共にホルチン右翼前旗に移る。吉林大学で中国文学を学んだあと、北京師範大学に進学。1984年に修士号取得後、同校で教職に就く。1980年代半ば、文学評論家李沢厚に対する批判で、中国文壇の「ダークホース」と呼ばれた。1988年、「美学と人間的自由」により、同校で文学博士号取得。その後、オスロ大学、ハワイ大学、コロンビア大学で客員研究員。 人権活動期. 1989年に中国で民主化運動が勃発すると、コロンビア大学の客員研究者として米国滞在中に即座に帰国を決め、運動に身を投じる。六四天安門事件直前、他の知識人3名(侯徳健、高新、周舵)と共に、学生たちの断食抗議に参加した。人民解放軍が天安門広場に突入する寸前、4人は学生たちに武器を捨てるよう説得する一方、軍と交渉し、「四君子(4人の指導的知識人)」と呼ばれた。 事件後に「反革命罪」で投獄された。六四天安門事件の他の政治リーダーの多くが欧米からの圧力もあり「病気療養」の名目で出国許可される中で、1991年の釈放後も出国せずに引き続き文章を発表し、六四天安門事件の殉難者の名誉回復と人権保障などの民主化を呼びかけ、更に2度の投獄や強制労働を受けた。 2008年、「世界人権宣言」発表60周年を画期として発表された、中国の大幅な民主化を求める「零八憲章」の主な起草者となり、再び中国当局に身柄を拘束された。 当初より「言論の自由」を理由に無罪を主張していたが、2009年12月25日、懲役11年および政治的権利剥奪2年の判決が下され、4度目の投獄となり遼寧省錦州市ので服役した。 2010年にノーベル平和賞を受賞し、中国在住の中国人として初のノーベル賞受賞者となった。劉は、「この受賞は天安門事件で犠牲になった人々の魂に贈られたものだ」と語り、涙を流したとされる。投獄中の人物に平和賞が贈られたのは、1935年に受賞したカール・フォン・オシエツキー以来2人目である(1991年に受賞したアウンサンスーチーは獄中ではなく自宅軟禁中)。受賞から死去まで一度も解放されなかったノーベル賞受賞者は劉暁波のみである。 死去. 2017年6月26日に遼寧省監獄管理局がおこなった発表によると、末期の肝臓癌と診断され入院していた劉は、家族による治療のための仮出所申請が許可され、監獄から当局の厳重な隔離措置の下に置かれているに移された。国際社会からは劉を国外に移送し治療すべきとの声が高まり、ドイツやアメリカ合衆国も受け入れを表明したが、中華人民共和国の政府及び医療チームは容態を理由に拒否。 7月9日、テキサス大学MDアンダーソンがんセンターが劉に対しカンファレンスを参加した独米両国の医学者が連合声明が発表した、声明によって、中国医学会が出した診断を同意したが、治療手段では介入療法や放射線療法などほかの選択がある、よって一秒もはやく劉を国外での治療を受けさせるべきだと主張した。しかし、中国医科大学付属第一病院のウェブサイトでは「独米専門家は劉に対して国外に移送してもより良い治療法がないと判断した」という声明を掲載した。7月10日、当局は劉が危篤状態に陥ったと発表。 そして現地時間の7月13日午後5時35分、劉は妻・劉霞ら家族に看取られ、肝臓癌による多臓器不全のため死去。。当局によれば、最期の言葉は妻に対する「あなたはしっかり生きなさい」「幸せに暮らして」だったと伝えられているが、妻も北京当局による隔離措置の下に置かれていた。 訃報を受け、ノルウェー・ノーベル委員会は北京当局のずさんな治療責任に対して非難声明を公表した。一方、アメリカ合衆国のドナルド・トランプ大統領はこれを無視して習近平を絶賛する発言を行ったことへの批判を受けて5時間後にホワイトハウスは4行の追悼声明を発表した。 投獄中にノーベル賞平和賞を贈られ獄中で死去したのは、1935年に受賞したカール・フォン・オシエツキーに次いで2人目である。 死後. 当局は、劉暁波の墓を作ることを認めず、劉暁波死後は彼の遺骨を海に散骨させた。また、劉暁波の兄が記者会見を開き、記者会見内で「中国共産党と政府に感謝する」と発言した。 2018年7月10日、北京で8年間、自宅軟禁状態に置かれていた妻・劉霞の出国が認められ、ドイツに到着した。一周忌にあたる2018年7月13日、香港の民主活動家らが中国政府の庁舎前で民主化を求めるデモを行なった。 ノーベル平和賞受賞. 選考段階. 中国政府は劉がノーベル平和賞の選考で候補となった時点で、ノルウェー・ノーベル委員会に対し「劉暁波に(ノーベル平和賞を)授与すれば中国とノルウェーの関係は悪化するだろう」と述べ、選考への圧力と報道された。 受賞. 2010年10月8日、劉のノーベル平和賞受賞が発表された。ノーベル委員会は受賞理由として、「中国における基本的人権のために長年、非暴力的な闘いをしてきた」ことを挙げ、劉への授与の決定は有罪確定時の同年2月には「不可避の状況になっていた」こと、選考は全会一致であったことなどを発表した。 受賞後の影響・反響. 各国の反応. 受賞直後の中華人民共和国を除く各国の主な反応には以下がある。 中国政府による抗議と対抗措置. 受賞発表直後に中華人民共和国外交部は「(劉の受賞は)ノーベル平和賞を冒涜するもので、我が国とノルウェーの関係に損害をもたらす」と批判した。更に中華人民共和国政府は在北京のノルウェー特命全権大使に対して劉のノーベル平和賞受賞に強く抗議を行った。また中華人民共和国の国内でノーベル平和賞授与決定を放映中のCNNやNHKワールドの報道番組が遮断され、その後もインターネット上のメールや検索などの遮断が続いていると報道された。翌9日、中国各誌は授与を批判する中華人民共和国外交部報道局長の談話を報道する形で間接的に報道し、人民日報系の環球時報は「ノーベル平和賞は西側の利益の政治的な道具になった。平和賞を利用して中国社会を裂こうとしている」と批判した。 受賞直後、海外メディアが自宅に住む妻劉霞にインタビューを試みたが、現地公安当局によって厳しく規制線がはられており、劉霞自身も電話インタビューに応じた直後、電話回線が通じなくなっており、事実上当局による軟禁状態にある。 また、世界各国での受賞への賛同意見に対し、中国外交部は定例会見で「中国への内政干渉は許さない」、「現状で、中国の関係部門がノルウェー政府との協力推進を望まないことは理解できる」、「劉暁波は犯罪者だ。彼に平和賞を与えることは中国国内で犯罪を奨励することにほかならず、中国への主権侵害でもある」と主張した。 2010年10月21日には、劉の釈放を求める署名活動を行っていた崔衛平北京電影学院教授が拘束された。 10月29日には、ノーベル賞の歴代受賞者により劉の釈放を求めるグループが結成されダライ・ラマなどが参加していると報道された。 英国デイリー・ニューズ紙によると、2010年に開催された第60回ミス・ワールド大会では、開催国である中華人民共和国側から選考委員に対して「ミス・ノルウェーは低い点に抑えるよう」との圧力がかけられ、ミス・ノルウェーのマリアン・バークダルは、5位にも入ることができなかった。これは劉の受賞に対する中国政府の対抗措置であるといわれている。 受賞式典への影響. 中国政府は2010年10月下旬以降に、ノルウェーにある欧州各国の大使館に対し、12月10日にオスロ市庁舎において行われるノーベル平和賞授賞式の式典に参加しないよう求める書簡を送った。 書簡では式典当日に劉暁波を支持する声明を発表しないようにも求めた。また北京においても、数カ国の外交官に対して同様の要請を行った。 授賞式当日は17か国が欠席した(中国・ロシア・カザフスタン・チュニジア・サウジアラビア・パキスタン・イラク・イラン・ベトナム・アフガニスタン・ベネズエラ・エジプト・スーダン・キューバ・モロッコ)。 授賞式当日には、中国政府は人権活動家のモンゴル族のハダを釈放したが直後に拘留した。 「オスロの誓い」. 劉のノーベル平和賞受賞を機に、世界で活動している中国人民主化活動家(民主中国陣線、中国民主団結連盟)、チベット独立派、ウイグル人独立運動家らがオスロに集結し、横の連携を誓う「オスロの誓い」が公表された。 各団体はこれまでに主導権争いなど内部対立の問題を抱えることもあったが、オスロでの会談の結果、運動をまとめる展開が見えたとした。 ニューヨーク在住の胡平(雑誌「北京の春」編集長)は「世界中に散っていた私たちが一堂に会することができた。 当面は力を合わせて『劉暁波氏の釈放』を求めていくことで一致した」とし、またスイス在住のチベット独立運動家ロブサン・シチタンも「これまでは中国人活動家とほとんど関係なく活動してきたが、これからは一緒にやっていきたい」と語り、ウイグル人独立ペンクラブ会長カイザー・ウーズンとともに中国人活動家らとの連携を示した。 解放要求. アメリカ議会下院. 2010年12月8日、アメリカ合衆国下院本会議は、劉の釈放を中国政府に要求する決議案を賛成402、反対1の圧倒的多数で採択した。 ノルウェー・ノーベル委員会. 2010年12月10日に開かれたノーベル賞授賞式において、ノルウェー・ノーベル委員会委員長のトルビョルン・ヤーグランは演説の中で「劉は何も悪いことはしていない」と、釈放を求めた。 劉暁波判決文(2009年12月25日). 「告発、答弁、証言、判決」のうち、「判決」(抜粋)は以下のとおり。 思想と主張. 陳述「私に敵はいない」. 2009年12月23日に「私に敵はいない」と題する陳述が発表された。その2日後の12月25日に、国家政権転覆扇動罪により懲役11年の判決を言い渡された。この「最後の陳述」はノーベル平和賞授賞式で代読された。 この陳述で劉は次のように発言している。 また劉は、1998年に中国政府が、国連の国際人権規約や国際人権法などの国際人権条約の批准を約束したこと、また2004年に中国政府が憲法改正し、「国家は人権を尊重し、保障する」と初めて明記し、人権が中国国内統治の基本的な原則の一つになったことを「中国共産党は執政理念の進歩を見せた」と賞賛している。なお、中国政府はのちに国家人権活動計画を提出している。 また、これまでの二度の拘禁について、北京市公安局第一看守所(拘置所。通称「北看」)の進歩を見たとしている。1996年の古い北看(北京市宣武区半歩橋)での拘禁と比べ、現在の北看は施設と管理が大きく改善され、「柔和になった」としている。 さらに劉は としたうえで、「私の国が自由に表現できる場所となり、すべての国民の発言が同等に扱われるようになるなくこと」を望むとした。 その他劉の陳述は以下のとおりである。 中共も日本の右翼も謝罪はしない. 劉暁波の文「中共も日本の右翼も謝罪はしない」において、日本の政治家が靖国神社に参拝したり、文部科学省が歴史教科書を改ざんし美化したりすることで、「日本の軍国主義が復活する勢いはただ民間の極右にあるだけではなく、いよいよ日本政府の選択になりそうだ。」「今の中国はもう東亜病夫ではなく、軍事力の面ではアジアの強国になっている。しかし、日本の極右勢力は今でも侵略の歴史を歪め、日本政府も中国人に真摯に謝罪はしない。特に、ドイツ人と比べると、中国人はいっそう日本人に憤りを感じせざるを得ない。」ただし、劉暁波は中国人自身の歴史に対する態度には問題もあると思う。抗議活動には「韓国の反日は官民一体」、「中国の反日は民間積極だが、政府が消極。」この現象を生み出す原因は「日本の野蛮な戦争観」、「日本人の歪んだ民族優越感」、「中国人自身の内輪喧嘩と身勝手さと臆病」、「中共が政権についてから歴史の改ざん」、「日米同盟と中日の競争」であると劉暁波は思う。そのほか、彼は「中共の戦争観は日本の右翼のと同じ、それは勝者は審判を受けずという実用主義の戦争観と歴史観である」と思う。日本の極右に対して、中国は「一方、中共政権はまず誠実に自分の歴史を面しなくてはならない。それで、「西側の道義的に日本を看過し中国を孤立させる必要をなくす。ナチスの残余のように、日本軍国主義を世界中誰でも非難するものにする。」「もう一方、中国は韓国と反日同盟を結ぶべき、他の被害のアジアの国と連携して、そちらを道義的に孤立の立場に堕ちさせる」。 批判. 丸川哲史と鈴木将久による劉暁波及び岩波書店への批判. 岩波書店が2011年2月に刊行した『最後の審判を生き延びて――劉暁波文集』に訳者である丸川哲史および鈴木将久による劉暁波と彼へのノーベル平和賞授賞を批判する丸川哲史・鈴木将久「訳者解説」が付されているが、この丸川哲史・鈴木将久「訳者解説」および岩波書店について子安宣邦が「岩波書店によるこの書の刊行は、岩波書店の歴史だけではない、日本の出版史上に汚点を残す大きな不正である。それは道徳的にも、思想的にも許されるものではない」と厳しい批判を加えている。子安宣邦によれば、岩波書店および雑誌『世界』は、劉暁波が「08憲章」を2008年12月に公表してから、中国民主化運動に関心を示すどころか、劉暁波のノーベル平和賞受賞について雑誌において全く言及しないほど一貫して無視してきたにも関わらず、劉暁波のノーベル平和賞受賞後、一転して劉暁波文集について独占的出版権を得た。これに対して子安宣邦は「『良識』を看板にしてきた岩波書店の商業主義的な退廃はここまできたか」と驚いた。 さらにこの文集の丸川哲史・鈴木将久「訳者解説」はノーベル平和賞受賞について「問いを立てておく必要」があるとして疑問点を述べているが、これについて子安宣邦は、「問いを立てる」とは劉暁波投獄の原因となった「『08憲章』における中国の民主的改革構想に、そしてその中心的起草者である劉暁波に対するノーベル賞の授賞に疑問がある」ということであり、さらに丸川哲史・鈴木将久による、 「人権や表現の自由という理念それ自体に関しては、実のところ誰も反対していないのであれば、劉氏への授賞の理由『長年にわたり、非暴力の手法を使い、中国において人権問題で闘い続けてきた』こととは別のところで、授賞は劉氏と『〇八憲章』の思想にある国家形態の転換に深く関連してしまう、ということである。平和賞授賞は、中国政府からすれば、やはり中国の国家形態の転換を支持する『内政干渉』と解釈されることとなりそうだ。その意味からも、ノーベル平和賞が持っている機能に対する問いを立てざるを得なくなる。」という文章について、子安宣邦は「これは実に曖昧で、不正確で、不誠実な文章である。劉暁波問題という現実とあまりに不釣り合いな、いい加減な文章である。これを読んで、何かが分かるか。分かるのはこの『解説』の筆者が中国政府の立場を代弁していることだけであろう。劉暁波は中国の国家体制の転覆を煽動する犯罪者であり、その国内犯罪者に授賞することは内政干渉であるとは、中国政府が主張するところである。丸川・鈴木はこの中国政府の主張と同じことを、自分の曖昧な言葉でのべているだけである。この曖昧さとは、これが代弁でしかないことを隠蔽する言語がもつ確信の無さである。私はこれほど醜悪で、汚い文章を読んだことはない。」「劉暁波のノーベル賞受賞に因んで出版された書に、その授賞そのものを疑う 『解説』が付されていることをどう考えたらよいのか。これは常識的には考えられない出版行為である。これは普通ではない。特別な意図をもってした出版としてしか考えようがない。」と強く批判し、岩波書店に謝罪と訂正改版の処置を公開で要求した。なお、丸川哲史、鈴木将久、岩波書店ともに子安宣邦の批判に反応していない。 高井潔司は、子安宣邦の丸川哲史・鈴木将久「訳者解説」批判には事実誤認があるとしつつも、それでも「劉暁波氏の受賞を歓迎しない岩波解説」は、「曖昧さを残している」として、丸川哲史・鈴木将久「訳者解説」は「『08憲章』に対して書名しなかった人が存在する」として秦暉を挙げ、「(秦氏は)『08憲章』がかつてヴァーツラフ・ハヴェル氏などが中心になって署名運動を展開したチェコスロバキアの『77憲章』を多く模倣しているとして、しかし社会状態の違う中国においてそのような手法は有効だろうか、と問いを立てる」「なぜなら、1977年のチェコスロバキアにおいては恐怖の圧政が第1番の課題であったが、現在の中国において喫緊の課題はむしろ経済問題だ。…そのような歴史的前提のない中国においては、それよりも、福祉や公共サービスをどうするかという『生存権』の議論の方が重要であるが、『08憲章』にはそれがない」と秦暉を利用しながら丸川哲史・鈴木将久の見解を述べるが、劉暁波は、「改革開放が国家の発展と社会の変化をもたらした」「仇敵意識の弱まりは、政権に対してしだいに人権の普遍性を受け入れるようになり、1998年には中国政府は国連の二つの重要な国際人権規約への署名を世界に約束したが、これは中国が普遍的な人権について国際的な基準の承認を行ったことを示すものであった。2004年に全国人民代表大会が憲法を改正し、『国家は人権を尊重し保障する』という文言をはじめて憲法を書き入れ、これは人権がすでに中国の法治の根本的な原則の一つになったことを示している」と述べており、評価が違うだけであり、劉暁波が生存権や経済を考慮していないという批判は全く当たらないとして、「秦氏こそ、いまや日本を追い越し世界第2のGDP大国となりながら、『生存権の方が大事』と主張し、政治改革や人権改善を先送りしようとする中国当局の代弁者になり下がっている」と批判する。丸川哲史・鈴木将久「訳者解説」は、ノーベル平和賞受賞決定後の10月11日に中国共産党内の自由派党員たちが「公民の言論出版の自由を実現しよう」とする公開書簡運動を取り上げ、「この公開書簡では、中国共産党総書記胡錦濤や国務院総理温家宝が言論の自由の重要性を述べた発言が強調された。日本ではあまり注目されていないが、温家宝は、2010年8月の深圳の講話から始まり、国内外で数回にわたり政治体制改革を進める決意を語った」「この公開書簡の求めた道は、中国共産党内の改革派の力を強めることであり、胡錦濤や温家宝の発言を実現することであった。劉曉波氏のノーベル平和賞受賞を境に、温家宝総理の政治体制改革への意欲は聞かれなくなった。長期的に見たとき、こうしたことが中国の民主化にどのような影響を与えるかは未知数である」という丸川哲史・鈴木将久「訳者解説」は、あたかも劉暁波のノーベル平和賞受賞が共産党内の改革派の足を引っ張ったかのように記述していると批判する。なお、2011年4月に花伝社から『劉曉波と中国民主化の行方』を出版した矢吹晋は、まえがきで「本書は劉暁波のノーベル平和賞受賞を契機として出版されるが、ノーベル賞に便乗しようというさもしい本ではない」と記述しているが、高井潔司は、これは丸川哲史・鈴木将久「訳者解説」の岩波本のことを皮肉っていることは明々白々と指摘する。 なお丸川哲史は、柄谷行人との「長池講義」において、劉暁波の思想が、ネオコンの思想家として著名なフランシス・フクヤマの思想を踏襲したものと解釈し、とりわけ「08憲章」14条における土地の私有化、15条における「財産権改革を通じて、多元的市場主体と競争メカニズムを導入し、金融参入の敷居を下げ、民間金融の発展に条件を提供し、金融システムの活力を充分に発揮させる」という箇所について、新自由主義的であると批判している。
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三島大橋
三島大橋(みしまおおはし)は、福島県大沼郡三島町にある道路橋である。 概要. 三島町中心部北側を流れる一級河川阿賀川水系只見川に架かり、三島町道宮下名入線を通す。南詰は三島町宮下字下乙田、北詰は三島町名入字上赤谷に位置し国道401号と丁字路で接続する。町内で最も人口の多い町中心部の宮下地区と、只見川の対岸にある2番目に人口の多い西方地区、その間の名入地区を連絡しており、特別豪雪対策県代行事業として1972年9月に事業化され、1975年10月に竣工した。ランガー桁部分が赤く塗装されていることが特徴である。 当橋梁は三島町各地区の連絡を強化する役割のほか、金山町、柳津町、昭和村といった周辺市町村から宮下地区にある福島県立宮下病院への緊急輸送ルートに北岸で接続する国道401号とともに指定されている。これは宮下地区の国道252号から病院までのアプローチ路線である福島県道237号小栗山宮下線(国道252号旧道)の道路状況が悪い(金山町方面からは人家が密集する狭隘区間を通ることになり、柳津町方面からは7%の急勾配にくわえJR只見線跨線橋にクランク状のカーブがあることによる)ためである。しかし、豪雪地帯ゆえに構造物の老朽化が激しいにもかかわらず、小規模自治体であるため町の技術職員の不足や財政上の課題により調査、修繕の事業化に至らなかった。2013年の道路法改正により、国土交通省の道路メンテナンス技術集団による直轄診断と直轄修繕代行事業の制度が新設されたことから、2014年9月29日より国による直轄診断が行われた。2015年1月15日に結果が町に報告され、ランガー桁の高力ボルトの破断、脱落と塗装、床版の劣化の進行が判明した。そのため2014年5月14日に全国初の直轄修繕代行事業として三島町から国土交通省東北地方整備局に引き継ぎが行われ、同年10月27日に起工、2017年4月17日に完成式が行われた。
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江島巧
江島 巧(えじま たくみ、1949年11月24日 - )は、和歌山県東牟婁郡那智勝浦町出身の元プロ野球選手(外野手)・コーチ、解説者。 来歴・人物. プロ入りまで. 那智中学校から進学した平安高校では甲子園に3回出場、4番打者として活躍し主将も務めた。2年次のには1年上のエース門野利治を擁し、3番打者、右翼手として春の選抜への出場を果たしたが、準々決勝で土佐高の上岡誠二に完封を喫した。同年の夏の選手権でも、準々決勝で荒武康博を打の主軸とする報徳学園に敗退。恵まれた体格ながら力に頼らずシャープに振る打撃で、長い伝統を持つ平安の2年生で3番を打ったのは戦後江島だけである。3年次のは文句なしに主将に選ばれ、1年下の池田信夫がエースとなる。春の選抜では中堅手に回るが、2回戦で原秀樹のいた新居浜商に敗れる。前年9月からの打率.465は大会の出場選手のうち4番目の成績で、各チームが敬遠策を取るため、無理して打つことが多い中でも15打点もマーク。打球のスピードは前年よりも速くなり、カウントがつまっても余裕をもって打った。弱かったシュートも球を呼び込んで打てるようになって、こなせるようになった。15盗塁の記録した俊足でもあり、甲子園通算8試合で13安打7打点と超高校級の折り紙つきのスラッガーであったが、同年夏は京滋大会決勝で守山高に敗退し、夏の甲子園出場を逸する。 現役時代. 同年のドラフト2位で中日ドラゴンズに入団し、1年目のから一軍に上がり、中堅手として32試合に先発出場。打率は低かったが、プロ1号から3試合連続で本塁打を放つなど活躍。第1号は6月4日の広島戦(中日)で白石静生からのソロ本塁打を放つが、この時の試合は0-2とリードされた3回裏に1番に起用された江島が適時打、6回裏にはまたも江島が左翼へのソロ本塁打で同点とした。7回表に中日先発の小川健太郎が広島打線に捕まって、古葉竹識の適時打に山内一弘の2ラン本塁打で勝ち越され、その裏に徳武定之の2ラン本塁打で1点差に追い詰めたもののリリーフ3番手の安仁屋宗八に交わされ4-5で敗れたが、その中で江島はこの日4打数3安打2打点の猛打賞を獲得。2年目のは右翼手に定着して13本塁打を放ち、5月5日の広島戦(福井)では本塁へかなりの強風が吹く中、バットが真っ二つを折りながら91mのスタンドを越えるソロ本塁打を記録。この試合では1回表に山本一義の適時打で先制を許したが、2回裏にはルーキー島谷金二の2ラン本塁打で逆転すると、5回裏に江島がソロ本塁打で1点を追加。投げてはルーキー星野仙一が1回の失点の後は0点に抑え、7回表に一死満塁のピンチの所でリリーフに伊藤久敏を送って後続を断ちそのまま3-1で逃げ切り、星野はプロ入り初勝利で島谷、江島ともども水原茂監督の起用に応えた。守備では11補殺を記録するなど強肩でも知られたが、プロの変化球に対応できず、その後も打率の低迷に苦しむ。 11月には広瀬宰との交換トレードで、ロッテオリオンズへ移籍。当初は主に外野の守備固めとして起用されたが、打撃も向上し徐々に出場機会が増える。の古巣・中日との日本シリーズでは5試合に出場し、最終第6戦では3番・左翼手として先発で起用され、1安打を放ち日本一に力を添えた。には30試合に先発出場、4番打者としても10試合に起用され打率.276を残す。その後も長く準レギュラーとして活躍し、は自己最高の打率.293を記録。同年6月21日の近鉄戦(川崎)では近鉄との前期最終戦となったが、2回表に羽田耕一の2ラン本塁打で先制され、4回表には梨田昌崇のスクイズで追加点を与え、打線も近鉄先発の村田辰美の前に無得点と苦しい展開が続き近鉄の勝利が見えてきた8回裏二死、走者2人を置いて白仁天が左翼席へ飛び込む同点3ラン本塁打を放つ。さらにはレオン・リーが安打の後にこの日3三振と元気の無かった江島が左翼へ勝ち越し2ラン本塁打を放ち、9回表をロッテ先発の奥江英幸をリリーフした村田兆治が締め5-3で逆転勝ちするが、近鉄は残り4試合でマジック4と崖っぷちに立たされた。には出場機会が減り、同年限りで現役を引退。 引退後. 引退後はロッテ二軍打撃コーチ( - )を務め、退団後はテレビ埼玉「ライオンズアワー・ヒットナイター」解説者()を経て、にはKBOリーグの青宝ピントゥスコーチを務めた。
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馬当路駅
馬当路駅(ばとうろ-えき)は中華人民共和国上海市黄浦区に位置する上海軌道交通の駅である。
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長承浦市
長承浦市(チャンスンポし、)は、大韓民国慶尚南道東部地域にあった行政区域である。巨済郡と統合して、現在は巨済市となった。 概要. 面積30.1k㎡であり、玉女峰(オンニョボン/옥녀봉 標高 565m)、国士峰(グクサボン/국사봉 標高 470m)を主峰とする山地に囲まれ玉浦湾に面している地域である。 1935年 統営郡二運面が長承浦邑に昇格され、1953年 統営郡から巨済郡に管轄が移された。1973年に大宇造船海洋玉浦造船所が設立されたことにより、人口が増加した。1989年1月に長承浦市に昇格された。しかし、1994年に都市と農村の複合形の行政区域を改編する政府の施策により1995年1月管内 長承浦・麻田・菱浦・鵝州・玉浦1・2洞の6つの洞を巨済郡と統合、巨済市に改編した。行政区域上、1989年以前の巨済郡の状態に戻った。統合当時の人口は約5万人だった。
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美住町
美住町(みすみちょう)は日本の地名。
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ミシェル・ジョンソン
ミシェル・ジョンソン(Michelle Johnson, 1965年9月8日 - )は、アメリカ合衆国の女優。 経歴. 1965年、アラスカ州アンカレッジ出身。主婦をしていた母と心理学者の父のあいだに生まれた。 1984年の映画『アバンチュール・イン・リオ』でマイケル・ケインの相手役として監督スタンリー・ドーネンに抜擢され、映画デビューを果たした。劇中では数回のトップレスシーンと1回のヌードシーンを披露して注目をあつめたものの、助演女優としての評判は良いものでなかった。それ以降は『ガン・ホー』『遥かなる大地へ』『永遠に美しく…』『グリマーマン』などの映画に出演しており、そのほか多くのテレビ映画、テレビドラマに出演もしくはゲスト出演している。 私生活では、MLBで活躍するマット・ウィリアムズと1999年から夫婦関係にあった。しかし、2002年にジョンソンが離婚調停を申し立て、2003年にウィリアムズがほかの女性と婚約して離婚が成立した。
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小石川正弘
小石川 正弘(こいしかわ まさひろ、1952年 - 2020年8月26日)は、日本の天文家である。宮城県出身。 生涯. 宮城県宮城郡広瀬村の愛子(現在は仙台市青葉区)にある曹洞宗の寺院・安養寺に生まれる。 宮城県農業高等学校を卒業後に五藤光学研究所勤務を経て、1972年から仙台市天文台の技術職員となり仙台市教育委員会生涯学習課天文台係長などを務めた。2013年に定年退職し、以後はせんだいメディアテークの嘱託職員として啓蒙活動を行っていた。 1988年12月に (3994) 愛子を発見したのをはじめとして、多数の小惑星を発見した。小惑星の発見数は1987年から1995年にかけて19個にのぼり、仙台市の地名やゆかりの人物、仙台市の姉妹都市にちなんだ命名をおこなっていた。また、2010年にはM31に新星を発見し、2010年と2012年には超新星も発見している。 2020年8月26日、仙台市内の自宅で死去。 渡辺和郎と円舘金が1991年10月に発見した小惑星 (6097) 小石川は、彼の名前にちなむ。
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登記統一文字
登記統一文字(とうきとういつもじ)は、戸籍統一文字を拡張した文字集合である。詳細は非公開であるが登記情報システムで使用される文字である。 概要. 各文字には10進数8桁の登記統一文字番号が付与される。登記統一文字は、戸籍統一文字と登記固有文字で構成される。
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ロンドン旅客機爆破テロ未遂事件
ロンドン旅客機爆破テロ未遂事件(ロンドンりょかくきばくはテロみすいじけん)は、ロンドン警視庁が2006年8月9日にイギリスからアメリカ合衆国へ向かう複数の旅客機を飛行中に爆破する大規模テロ計画を未然に阻止した事件である。 概要. 2006年8月9日、ロンドン警視庁はイギリスからアメリカ合衆国とカナダへ向かう複数の旅客機(最大で10機と見られる)を爆破させる大規模なテロ計画を未然に阻止した。 この計画は、液状物質を使用し、アメリカ合衆国の主要都市上空で飛行中の旅客機を次々に爆破・空中分解させる計画としていた。 容疑者. 国際テロ組織アルカーイダに関与しているとみられる24人を逮捕。24人のうち、22人がパキスタン系イギリス人と判明。 影響. この計画により、イギリスおよびアメリカ合衆国は、イギリス発アメリカ合衆国行きの民間航空機に対する警戒レベルを最高レベルまで上げた。 アメリカン航空、ユナイテッド航空、エア・カナダの便がテロの対象となっていた。この影響で、液体物質の持ち込みが規制され、化粧品などを含む一切の液状、ゲル状の物質の飛行機への持込が禁止された。 それによって世界の一部の国際空港では航空機内に財布、貴重品を除く手荷物の持ち込みを禁止する措置をとった。さらに、ロンドン・ヒースロー空港は、すでに同空港へ向けて離陸した便を除くすべての航空機の着陸を禁止した。 また、ロンドン証券取引所の株価は日本時間8月11日の時点でこの影響で反落した。
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ヴィッラ・ミノッツォ
ヴィッラ・ミノッツォ()は、イタリア共和国エミリア=ロマーニャ州レッジョ・エミリア県にある、人口約3,700人の基礎自治体(コムーネ)。 地理. 位置・広がり. 隣接コムーネ. 隣接するコムーネは以下の通り。括弧内のLUはルッカ県所属、MOはモデナ県所属を示す。 行政. 分離集落. ヴィッラ・ミノッツォには以下の分離集落(フラツィオーネ)がある。
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荒川橋梁 (京成本線)
荒川橋梁(あらかわきょうりょう)は、京成電鉄本線の京成関屋駅 - 堀切菖蒲園駅間の荒川(荒川放水路)に位置する鉄道橋である。荒川放水路橋梁(あらかわほうすいろきょうりょう)とも呼ばれている。 本項では隣接する綾瀬川に位置する綾瀬川橋梁(あやせがわきょうりょう)に付いても記述する。 京成本線荒川橋梁. 概要. 本橋梁は1931年(昭和6年)3月に完成し、同年12月19日の青砥駅 - 日暮里駅間開業と同時に供用を開始した。全長446.99 mの橋梁である。また、約27メートル下流側には東京都道314号言問大谷田線の堀切橋が平行して架かっている。 開業時より現在に至るまで、本橋梁は両端が6スパンの単線上路式プレートガーター橋、中間が61.0 m(200呎)3スパンの複線下路式曲弦ワーレントラス橋である。トラスは東京石川島造船所製である。 京成本線綾瀬川橋梁. 概要. 本橋梁は荒川橋梁と共に完成し、青砥駅 - 日暮里駅間開業と同時に供用を開始した。全長30.5 m(100呎)の橋梁である。 開業時より現在に至るまで、本橋梁は両端が1スパンの単線上路式プレートガーター橋、中間が1スパンの複線下路式平行弦ワーレントラス橋である。トラスは東京石川島造船所製である。 架け替え工事計画. 1931年の架設当時は問題が無かった荒川橋梁の堤防部分であったが、その後の高度経済成長期に地下水や天然ガス採取などが下町一帯でおこなわれたことにより、時期が経過するにつれ広域的な地盤沈下が起こり海抜ゼロメートル地帯が形成され、この荒川橋梁の部分の堤防が他の場所と比較して低い事で治水上や安全上の問題が生じる恐れが出たため、京成電鉄や国土交通省等は荒川橋梁および綾瀬川橋梁の架け替えを決定し、2007年度を目途に工事を実施する計画がある。事業区間は京成関屋駅〜堀切菖蒲園駅間の約1.5 kmで、2009年から2013年にかけて環境アセスメントが実施され、2014年より詳細設計に着手された。また、この架替事業を契機として堀切地区の街づくり(密集事業)とも連携して進められることとなった。計画では現橋の北側(上流側)に平行弦ワーレントラス橋を架ける予定である。その後荒川橋梁架替事業の説明会が2016年11月30日旧小谷野小学校体育館にて開催され、翌年4月より用地測量が行なわれ、用地取得が進められている。